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ほならね理論が孕む安易性

「ほならね理論」とは。これは有名なyoutuber(現在の活動状況は不明)のsyamu氏が用いた事で有名になり、そう名付けられたもののようです。
大雑把に言えば「他人に文句付けるなら自分がやれ」という意味の言葉です。
私は事の経緯を把握している自信は無いのですが、恐らく「お前より面白い動画投稿出来る」というような事をsyamu氏が言われ、それに「ほならね、まず自分がやってみろって話ですよ」という感じで返したという経緯だと思っています(違ってたらすみません)。
この所謂「ほならね理論」は、用いたのが有名なsyamu氏であっただけに、それだけ人口に膾炙しているようです。彼に影響されて「ほならね理論」を使い回す人も少なくないとか。といってももう一昔前くらいの話だと思いますけどね。
この「ほならね理論」はどれだけ有用な理論なんでしょうか?
結論から言うと、時と場合によっては強力な理論になり得るとは思います。ただ無闇に振り回せる程の汎用性は無いでしょう。

ここではほならね理論が強力に作用する場合についての言及は割愛し、無闇に振り回すとは例えばどういう場合かについて言及して行きます。

『イラストレーターが絵をSNS上にあげていて、それに対して「下手だな」とコメントがあったとしましょう。
ここで「ほならね理論」を発動するのは正しいでしょうか?』

正しいとは思えません。ここで発動してしまうと、絵への感想や批評、その他コメントの類が一切許されなくなるとは思いませんか?

ではちょっとこの例に情報を追加します。

『イラストレーターが絵をSNS上にあげていて、それに対して「下手だな。俺の方が上手く描ける」とコメントがあったとしましょう。
ここで「ほならね理論」を発動するのは正しいでしょうか?』

前例におけるコメントに「俺の方が上手く描ける」が加わっただけです。しかし今度は自分が描く場合について言及されているのですから、ほならね理論を発動するのは正しいようにも思えます。
ですがちょっと待って下さい。次の例ならどうでしょうか?

『イラストレーターが絵をSNS上にあげていて、それに対して「下手だな。幼稚園児の方が上手く描ける」とコメントがあったとしましょう。
ここで「ほならね理論」を発動するのは正しいでしょうか?』

この例で先程の理屈に沿ってほならね理論を適用すると、幼稚園児を引っ張ってくるって話になりませんか?
あるいは、自分が幼稚園児の時に描いた絵を引っ張ってくるか、幼稚園児より確実に上手い自分の絵を引っ張ってきて三段論法的に解決するかでしょうか。
確かにそれなら解決しそうですね。
では次の例はどうでしょう?

『イラストレーターが絵をSNS上にあげていて、それに対して「下手だな。このプロより他の同人作家さんの方が上手い」というド素人(勿論それらの人より描けない人)からのコメントがあったとしましょう。
ここで「ほならね理論」を発動するのは正しいでしょうか?』

これだと、自分は比較対象の二者より劣るのですから、自分が実演して証明をしてみせる事は不可能です。そもそも実演が論点になり得ません。
こういう場合は、自分がより上手いと思っている絵を持ってくるという話になるでしょう。

ここまでの話を踏まえて、私は「オレの方が上手く描ける」に対しての「じゃあ描いてみろ」という応答は必ずしも正しいわけでは無いと思っています。
それにここでまだ考慮してない要素、変数があります。それは作品の実際の巧拙です。誰の目にもプロが描いたと納得するような素晴らしい作品に対してド素人が「俺の方が上手い」と啖呵を切ればほならね理論発動になるかもしれません。ですが、プロの作品にしてはおかしいような違和感がある作品、少なくともそう感じた人がいたとしてその人が「(ド素人の)私でもこれより上手い」と指摘したという場合、ここで即ほならね理論発動は安易だと私は思います。ここでの論点は、「プロの作品にしてはおかしい違和感」です。「ド素人がプロより優れた絵を描く」ではありません。ほならね理論は一歩間違えれば過激とまではいかないような意見でも潰しかねないと思います。
しかしネット上にはこういった単一の理論で皆が穏当に意見出来る土壌を踏み荒らしているような光景が残念ながら非常に多いです。そういうものに心当たりのある方は是非私にお知らせ下さい。私がここまでしてきたように解析し問題点を指摘します。

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