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ドッペルゲンガー

 日が落ちて薄暗くなった坂道を登っていくと徐々に傾斜は緩やかになり、体がじんわり熱った頃、薄暗闇の中に電灯に照らされて青白く浮かび上がった校門が見えました。この時間に高校に入ったことは無かったので、僕は夢を見ているような奇妙な気分になりました。九月の夜の纏わりつくような生ぬるさも手伝ったのかもしれません。校門に近づくと、門の裏に人影が見えました。相手もこちらに気がついたようで、ゆっくりとこちらに体を向けてきます。電灯に浮かびあがったのは体育教師の松本でした。

「こんな時間に何しに来たんだ」

松本はいつものようにどすの利いた声で聞いてきます。僕は鞄を肩にかけ直し、その声に少し怯みながら答えました。

「ちょっとテキストを忘れてきてしまって取りに戻ってきたんです。すぐに帰ります」

「もうすぐで完全下校時間だからすぐに戻ってこいよ」と松本が言うのに「はい」と返して僕は校舎に入って行きました。外の暗さに慣れていた僕は校舎の明るさに少し頭痛を感じました。グラウンドからは微かに野球部が練習する声が聞こえていました。

 階段を上がって二階の廊下沿いに高三の教室が並んでいます。そこを一番奥まで進んだところが僕の教室でした。普段は教室で自習する生徒が一人や二人はいるのですが、今日は誰もいないようで、並んだ教室はどれも電気が消えていました。廊下には非常灯の緑色がぼんやりと反射していました。

 廊下の突き当たりで進み、ドアを開け、僕は教室に入っていきました。静かで薄暗い教室に整列した机には、なにか神聖さのようなものすら感じました。教室の黒板や机、椅子、掲示物の一つ一つまでもが僕に耳を澄ませているように思われ、僕は極力音を立てないように歩きました。机の中にあるテキストを取って出るだけなので、電気をつけることはしませんでした。僕の机は教室の奥、窓際の後ろから二番目にありました。僕は静かに、しかし急いでその机まで歩きました。忘れたテキストはその机の中にあるはずでした。

 机の中に手を入れ、中にテキストがないか確かめます。しかし、何度試してもそこには何もありませんでした。机の中を確かめる金属音だけが、教室の中で静かに響きます。ないはずはありませんでした。学校指定の鞄に入っていなければ、まず机の中しか考えられません。僕は学校にいる間、ほとんどの時間を教室の自分の机に座って過ごします。テキストは机の中か、その側に置かれた鞄しかありえないのです。もしかしたら、と思って僕は鞄の中も探してみますが、そこにも見当たりません。

どうしようかと途方に暮れて窓の方に目をやると、薄がりの遠くで大きな赤い旗が振られているのが見えました。運動会を目前にした応援団がグラウンドで夜の練習をしているようでした。体操服を着た生徒たちが長方形に整列し、その列の前に一人、団長らしき男子生徒が赤い旗を振っています。位置の関係でしょうか、不思議と声は聞こえませんでした。彼らのダイナミックな動きと音の無さが見事な不調和を奏でていました。しかし、同時にその光景にどこか懐かしさを覚える自分もいました。その既視感の理由を考えてみましたが、ついに分かりませんでした。

窓から向き直って教室の前方に目を向けた時、そこに僕がいました。最初、突然目の前に鏡が出現したのだと思いました。鏡に映った自分自身を目の前に見ているのだとそう考えました。しかし、その僕と全く同じ容貌をした彼は、僕の動きとは全く無関係にぼーっと立ち尽くしていました。それはつまり目の前の僕は鏡像でないことを示していました。

ドッペルゲンガー

 という単語が頭に浮かんでいました。世界には自分の他に二人、自分と同じ顔をした人がいて、それをドッペルゲンガーと言う。僕は自分が知っている限りのドッペルゲンガーについての知識を頭でなぞりました。しかし、そういった知識の中にあるワクワクとした感じを目の前の僕に感じることはできませんでした。どちらかというと、それはワクワクというよりは不快感に近いものでした。恐怖のようなものはありましたが、それは遠くから聞こえる叫び声のように切実な感じを欠いていました。

 胸の中にムカムカと衝動が湧き上がってくるのを感じました。その不快感は僕の拳の中に集結し、目の前のやつを殴ってしまいたいという形になって僕を覆いました。僕はその衝動を飲み込んで、彼を睨みました。

「怒ってるの?」

 僕とよく似た彼の無表情な口から出たのは、幼児のような幼い声でした。冷たい恐怖が背筋をゆっくりとなぞりました。その声は聞き覚えのあるものでした。ぼやけた記憶の声を辿り、先ほどの声と一致するものを発見しました。それは僕の幼い頃の声でした。母親が機会があるたびに見せてきた、幼い頃の僕のビデオ。その中に録音された声であることは間違いありませんでした。

 僕が何も答えないでいると、また彼は口を開きました。

「これ、難しいね」

 彼は僕が探していたテキストのページをペラペラとめくりながら言いました。

「返して」

 僕がそう口に出した時、声が掠れてまるで自分の声じゃないみたいに聞こえました。その時に初めて喉がカラカラに乾いていることに気がつきました。

「そっか君のものだったね」

 彼はそういってテキストを僕に差し出しました。僕がそれを手に取った時、彼はにんまりと笑っていました。僕がそのテキストが確かに自分のものであることを確認し、カバンに入れていると、彼は「じゃあね」と言ってドアの方まで走り、教室を出て行ってしまいました。

 彼がいなくなった後、静寂の教室の中でしばし呆然としていました。ふと気がつくと、窓から野球部が帰り支度をする声が聞こえてきました。教室の前の時計を見ると、下校時間直前でした。秒針が滑らかに文字盤の上を回転していました。僕は少し急いで教室を出ました。

 校門まで行くと、まだ松本が立っていました。

「遅かったな。時間ギリギリだぞ」

「すみません」

 僕は謝りましたが、やはり自分の声のようには聞こえませんでした。

 その日から奇妙なことが起こるようになりました。

 翌朝、鏡の前で制服に着替えている時、鏡の中の自分がにやりと笑ったように見えました。驚いて凝視すると、何もなかったかのようにそれは僕を映すただの鏡像になりました。鏡に限らず、窓や水面など自分を映す全てに関して、ふと見た時にその中に自分と違う動きをする自分の影を見てしまうということが起こるようになりました。そういうことが幾度も繰り返されると、何か自分を映すものを見つけた時、自然とその中の自分の姿を確認するようになります。気にしてみると、至る所に自分を映すようなものがあることに気づきます。どこへ行ってももう一人の僕が僕を監視しているような気分になりました。街を歩く時に通り過ぎる窓、夕立の後の水たまり、スマートフォンの画面、そして鏡。色んなところから僕がにんまりと笑って僕自身を見ているような気がしました。それはとても居心地の悪いものでしたが、同時に独特の安心感も与えてくれました。ちょうど狭く暗いところに閉じ込められた時の窮屈感、不安と少しの安心感に似ていました。

僕は自分の世界の中に閉じこもるようになりました。ちょうど高校三年生で、受験勉強をする時期と重なっていたのは幸運でした。人と関わらず、ただ勉強し続けるのは僕にとって安心なことでした。ふと自分のいる世界に意識が向いてしまうとまた自分の気味の悪い影を見てしまうことになります。参考書とノートだけに集中する時間はそれよりずっと楽なのでした。

 それから時は巡り、僕は大学生になりました。第一志望には落ちて第二志望の大学になりましたが、僕の成績にしては十分満足のいくものだったと思います。東京での一人暮らしでした。高校を卒業して、新しい地で生活を始めるとなった時は、不安に押しつぶされそうにもなりました。だからこそ僕はなるべく多くの何か新しいことを始めることにしました。何もしないで不安に押し潰されるよりは、何かをがむしゃらにやることで頭を空にする方がいいことに気がついたのでした。そうやって何かに集中している時は、鏡像への不安は意識の外に追いやられていました。一番苦労したのはコミュニケーションでした。高校の間、僕はあまり人と関わりを持たないで暮らしてきました。そのため、僕は新しい大学の生活を通して対人について一通りのことを学ばなければなりませんでした。試行錯誤を繰り返しながら、しかし僕は着実に高校までで手に入れるべきであったコミュニケーションの技術を身につけていきました。

努力の結果でしょうか。サークルやクラスの中でノリのいいやつという称号を得た僕には、高校に比べ、多くの友人が出来ていました。深い関係になった友人も、軽い冗談を言い合うだけの友人もできました。まだ監視されている感覚は消え去ってはいませんでしたが、その頃にはそういった感覚とうまく折り合いをつけられるようになってきていました。僕にとってもう一人の僕は、前ほどの脅威をもたらすものではなくなっていました。僕は徐々にではありますが、社交性を身につけているようでした。それは上手く嘘をつくことに似ていました。

友達とくだらないことを話して歩いていた時、通り過ぎた窓に映った僕が、にんまりと笑って手を振っているのが目の端に見えたことがありました。急に黙ってしまった僕を見て友人は少し心配そうに顔を覗き込みました。僕はにやりと笑って「大丈夫なんでもない」と胸を張りました。友人は安心してまた会話が再開しました。

日々の活動に明け暮れていくと徐々に監視されているような感覚は弱まっていくようでした。それと同時に、これはうまく説明できないのですが、現実感が薄まっていくような感じがありました。まるで目の前にベールがかかっているような感覚、あるいは現実を生きていても演劇を見ているような感覚、そういうものが感じられるようになりました。何をしていても中心を欠いているようなそんな感覚がありました。しかし、この感覚はむしろ僕の生活に対しては悪くない影響をもたらしているようでした。僕はかつてのように過度な緊張をしなくなっていましたし、過ぎた感情に振り回されることもなくなっていました。

大学から電車で家まで帰っている時、何もない宙を睨んで怒鳴っている老人を見かけたことがあります。僕は少し離れたところで手すりを持って立っていたのですが、その老人はある瞬間、突然こちらを向いて「お前は偽物だ」と叫びました。その時は怖いなと思っただけでしたが、最寄駅で降りて家まで歩く間に、それなのかもしれない、と思いました。世界の全部がレプリカのように感じられる、それは僕が、僕自身が偽物だったからなのかもしれませんでした。

とにかくそのような感覚が薄らとではありますが、起きている間ずっと僕を包み込んでいました。一度気になってそういう類の病院に行ったのですが、医者には睡眠不足と気にしすぎだと言われ、薬ももらえずに帰ることになりました。言われてみると気にしすぎなだけであるような気がしてきました。意識して睡眠をとり、気にしすぎないように暮らしている間に、僕はこの感覚への違和感を忘れていきました。どんな違和感も繰り返される生活の中で擦れ、滲み、消え去ってしまうのかもしれません。

 大学三年生の春先でした。その日の出来事をもって、僕は僕を二年間悩ませ続けた鏡をめぐる奇妙なあれこれに別れを告げることになります。

 友人の家で飲み会をした帰り道を歩いていました。少し飲みすぎて気持ちよくフラフラと家まで歩いていきました。自分の住むアパートの階段を登り、自分の部屋の前に立ちます。鍵をポケットから出し、ドアノブに差し込んだ時、それに気がつきました。ドアノブの上に十数センチの小人が立っていました。彼は高校生の時の僕の姿をしていて、僕を無表情に見上げていました。

「久しぶりだな」

 僕がそう言うのが聞こえたのか聞こえなかったのか、彼は微動だにしませんでした。

「ちょっとそこをどいてもらえないかな。ドアを開けたいんだ」

 僕は少し強気で言いました。僕は僕の声で話していました。

 しばらく無表情でいた後、彼はにやりと笑い、「じゃあね」と呟いてドアノブから地面へと飛び降りてしまいました。僕の見間違いでなければ、彼はにやりと笑うその直前、悲しげにその目線を地面に彷徨わせていたようでした。ビシャっと言う音がして、ドアノブの下、地面にあったのは潰れた蛙の死骸でした。僕はやれやれと思って、蛙をどうしようか考えました。自分の部屋の前に蛙の死骸があるのは気分が良くありません。ティッシュで掴んで、すぐ後ろの手すりから死骸を放り投げてしまうことを考えましたが、少し蛙に悪い気がしました。仕方ないな、と呟きながら僕はティッシュで蛙を掴み上げ、階段を降り、アパートの前のちょっとした花壇に埋めてやりました。最後に少し手を合わせて僕は部屋に戻りました。何かが終わったのだという感覚が強くありました。

 それからもう一人の僕が反射の中に現れるということは一度も起きていません。多分、もう二度と起こらないのでしょう。僕の直観はそう訴えています。

 時々、一時期のあれは何だったんだろうと考えます。あれは果たして僕にとってどのような意味があったのでしょうか。時によってはそれらしい答えが出ますが、日が経つとその答えが少しずれたものであるように感じられるのでした。

また、時々寂しく思うこともあります。何かの帰り道、ふと自分へ思索の刃が向けられた時によくあるように思います。その時僕は、鏡の中で笑う僕はなにか重要なものだったのではないかと考えるのです。もう一人の僕は失ってはいけない何かだったのではないかと考えるのです。しかし、もうこの世界に僕は一人しかいません。遣る瀬無い気持ちになります。世界が黴臭く感じられ、前を進む一歩が重くなります。そういう時は高いところに上ることにしています。重い足を運び、見晴らしのいい展望台や山に行きます。遠く見下ろした綺麗な景色は懐かしい気持ちにさせてくれます。何故なのかは分かりませんが。

そしてある想像を頭の中でします。僕は少年と手を繋いで草原の中を走っています。僕たちは遠くの納屋を目指して走っています。後方を振り返ると、遠くで草原が燃えています。まるで赤い旗を振るように大きな炎が揺れています。前方の納屋から何か人影が出てくるのが見えます。夕暮れに差し掛かった納屋は逆光で黒塗りになっています。その中から黒い人影が手を振っています。僕たちはその納屋を、その人を目指して走っています。

 僕はそういう想像をしながら、耳を澄ませます。ただ音だけを頼りに目を瞑ります。すると何やら声が聞こえます。想像が現実かわかりません。多分想像なのでしょう。その声が何を言っているのか、声の主は誰なのか全くわかりません。それでも僕は耳を澄ませ続けるのです。そうやって満足して目を開けるとこの世界は僕にもう少し親切になって戻ってくるのです。







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