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透明化する言葉として

映画館を出た後、街の光景が鮮やかに見えることがある。街路樹の葉は太陽の光に祝福を受けている。街ゆく人々はそれぞれの人生を歩いている。映画館の中ですべての光は意味を持っていて、僕はその前提を残したまま映画館から街へと放出されてしまう。電車を待つプラットホームで本を読む。本から目を上げた時、青空と線路、他に待つ人や看板が容赦なく僕の中に流れ込んでくる。白い紙に印刷された小さな文字に開かれていた感受性が、そのままこの世界にも適用されてしまう。
最果タヒ展に行った。そこでは句読点で区切られた言葉が吊るされ、緩やかに回転していた。それぞれの言葉は、お互いに距離を持って独立に叫んでいた。一つ一つの言葉を読むのをやめて、一度全体を見回してみる。まるで大勢の人に一斉に叫ばれているような気分になる。会場は静かであったが、確かに声が入り乱れていた。言葉が言葉のために存在している、とそう思った。それらを眺めている時、僕は僕自身で、彼は彼自身だった。みんな沈黙の中の叫び声に耳を澄ませていて、それは自分の声であることを暗黙のうちに知っていた。作者の言葉が自分の声に塗り替えられて叫ばれる。そういう誤解の中で私たちは理解しあっていた。
会場を出る。日常に繰り出す。大阪梅田のその街を埋める言葉に驚く。圧倒される。立ち入り禁止の掲示、エスカレーターの危険防止アナウンス、街ゆく人の会話、リズムのいい売り文句、それらが先ほどの吊るされ回転する詩の濃度で僕に覆い被さってくる。僕たちはそれぞれに独立した六等星だった。互いに叫び合う声として僕たちはいた。それでも生きるために言葉は濃度を薄めていく、日常の温度に冷めていく。楽をするために世界に半透明の覆いをかける。そうでなければまともに生きることができないのだ。時々詩を読むと覆いが透明に脱色される。あるいはこれは他の芸術でも同じかもしれない。生きるためにしたマスクを芸術は透明にする。そういう役目がある。夜空の最高密度の青色をもう一度見させてくれる言葉としてそこに詩があった。

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