古本まつり

古本まつりにいきました。
寺の境内にいくつものテントが建てられ、その屋根の下、はみ出て外に至るまでの古本が、本棚に収められたり、台の上に重ねられたり立てられたりしてずらりと並べられたその様は、過去の陳列、歴史の現前、意味の飽和といった風情で圧巻でした。私は17時に終わるそのまつりに16時から参戦して、終わりも終わりだったのですが、まだ人はたくさんいて、古本に集まる群、群、群は、蜜に群がる蟻さながらで、人間は意味に集まる蟻なのだ、などと心の中でつぶやいてみたりもしました。このような意味の海の中で、私はコミュニケーションの不可能性を思わずにはいられませんでした。かつて誰かが他者に(いや、あるいは自分自身に)向けて意味を残そうとした企ての証としてのこのおびただしい数の本たちは、そもそも意味を伝えるために言葉という形式とそれに対する書き手読み手両者の解釈を挟まなければならないという原理的な困難をありありと私に証明しているように思われました。また、本という媒体の性質として意味伝達の担い手は言葉(部分的に挿絵)に限定される訳ですが、意味というのはもっと幅広く、その正確な伝達には(正確な伝達?)身体的な共有が不可避であると私は思うわけで、本にして伝えようとした過程で削り取られ葬り去られた意味たちにどうしようもない無念さを感じざるを得ませんでした。古本の色褪せた哀愁とちょうど西の空が赤く染まる時分とが重なって、意味たちの火葬、意味たちへの追悼、という気分になって思わず何度か空想の中で手を祈りの形にしてしまったりもしました。このような感傷に陥っているのは何もここまでに挙げたような高尚な理由だけではなく、単純な身体の疲れというのもありました。というのも、ずらりと並んだ古本のタイトルをさらっていく過程で、それがあまりにも膨大な数であったために、文字が私に解釈される以前の混沌が、脳の解釈の速度では間に合わず、眼球に蓄積されてゆき、目を中心とした頭部上半分が腫れぼったくなってきていたのです。薄霧のかかっていくような頭の中で題名の文字列だけが浮遊しており、すなわち私は疲れてしまっていたのです。17時になり順に終わりゆく屋台の合間を縫い境内を抜けた私は、疲労と、この種類の疲労についてくる奇妙な心地よさとを抱え、ぼんやりと通りに沿って歩いておりました。そして呆然と見上げた西の空に、陽を受けて金色に輝く飛行機雲。こちらに向かうものと遠ざかるものとの2本、短くまっすぐ伸ばされていたのがとても美しく、頭の霧は一時的に晴れ渡り、これこそが美しさだ!などと感嘆してしまったのでした。結局一時間では購入を決めきれなかったために、収穫物無しの帰路は、金色の雲によってかろうじて爽快なものになったのでした。

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