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余白のリズム

書店に行って歌集を買った。
近頃、社会性のある立場を任せられていることもあってか、己の発露というよりは構造と構造の空隙を埋めるような身のこなしが多くなり、自分のなかの極めて個別的な世界への真摯さが欠けてきていると思っていたところだった。あちこちに雑草が生え、川は氾濫を起こし、地下水の強引な引き上げで地盤沈下を起こしている私の王国を再建するべく、書店に足を運んだ。書店には本が沢山ある。一生読むことのないだろうあまりにも多くの本を横切って私は読みたい本を手に取る。書店の中にあるこの任されている感じは私たちの孤独への信頼であるように思う。私が手に取ったのは歌集だった。短歌は一般的に三十一音で成る定型詩だ。小説やエッセイなどその他の文芸と比べて圧倒的に文字数が少ない、言葉の素材感が粒立つ表現方法だ。それゆえ非常に自分への真摯さが試される形式であると思う。短い言葉から染み出す情や景を掴んで味わうためには、詠み手と自分をそれぞれに信頼して、丁寧に重ねようと試みることが必要であると思う。その試みの中で自分への信頼を取り戻せると思ったのである。手に取って読んでいる間思うのは短歌に限らず本というのは音がない。音楽や動画など日常的に触れる媒体は音を含む。この音のなさが重要なのではないかと思う。聴覚というのは一体感の感覚なのかもしれないと考えたことがある。音に委ねることで私たちはそれぞれの孤独を溶け合わせてもっと大きな何かに一体化しているように思う。このような音がない本は書き手と読み手が一対一で正面から向き合うことを求めるように思うのである。気になった歌集が二つほどあった。私には限られた少数の気に入った本を家に置いておきたいという信条がある。できることなら図書館で借り、それでも好きだったものを本棚に置くようにしてきた。しかし歌集は図書館にないことが多い。買うか買うまいかの逡巡の中で意識にばちっと静電気が走ったかのような断絶があり、私は二つを購入することを決めた。このように自由意志は怪しいものである。自分の中に決断の理由を求めてもある段階で言葉が尽きてしまう。そこに世界の堅牢さがあると私は思う。会計をして書店を出たあと、帰り道を歩いている時にタクシーに乗り込む家族を見かけた。父らしき男性は赤ん坊を抱え、隣には母らしき女性が立っている。二人は歩道から大通りに身を乗り出し、迫ってくるタクシーに揃って夜空高く手を伸ばしていた。その姿のえも言われぬ愛嬌が心に染み渡り、ふと学校の教室に通わなくなってから手を挙げる場面がとても少なくなったことを思った。あの二人はどれくらい久しぶりに手を挙げたのだろうか。そんなことを考えている間も鞄の中の歌集が嬉しかった。

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