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2024年『オーランド』東京公演初日観劇感想


観に行ったきっかけ

 主人公が何百年もの時間を生き続ける&生きている間に性別が変わる(?)設定、主演が宮沢りえさん、出演者にお芝居スキルの骨太な方しかいない様子、そして演出が栗山民也さん、ということで、「生で客席で観劇すべき演目」に即決。共演者の中に『太平洋序曲』で見事だったウエンツさんがいらして、彼のお芝居をぜひもう一度観たい!と思ってたのも、劇場まで赴くに至った動機の一つ。
 ちなみに、原作の小説がそもそもとても人気で、世界中で繰り返しこれにインスパイアされた作品が作られているというのを当日プログラムを読んで初めて知り、原作についても過去のオマージュ作品についても予習ゼロ。今回も公式以外は情報を入れないすっかり真っさらな状態で向かい、見事想像を裏切られ、期待の何倍もの引力に目一杯エネルギーを吸われ、「良い意味で」どっと消耗して帰ってきた。

 7月のパルコ劇場に赴くのは2020以来で2年ぶり。「渋谷、また工事で変わってる…(汗)」と今回も彷徨い、開演には間に合ったもののヒヤヒヤしながら到着(特に最後エレベーターで毎回焦る…)。
 ぎりぎり滑り込みで売り切れ寸前の前売りを買っていたため、P列かなり壁近くの下手側。が、さすがパルコ劇場、舞台がきっちり全部見えたし、P列という響きに反して舞台が遠くなく、座席面でのストレス無しで、しっかり引き込まれた。

この記事はネタバレしてます

 毎度ながら、「ここが素敵だった」「この場面が印象的だった」と、話の流れや演出に言及しながら回想するので、「自分の目で直接観てから感想読みます派」の方は、ここから下はお控えください。
 ちなみにセリフについては記憶をたどりながら書いているので一言一句レベルの正確性はなく、あくまでニュアンスです。

予想外&期待以上

 元々漫画でも小説でも舞台でも、「周りの人と違う時間を生きる」設定のものは割と好んで触れていたのと、7月頭時点でちょうど「生まれたときの性別と生きていく上でのジェンダーが一緒じゃなかった登場人物」が出てくる作品を観ていたので、「360年も生きてしまって、自分を知る人が誰もいない孤独が描かれたりするのかな」とか、「性別を跨ぐことによる苦しみや解放が出てきたりするのかな」と想像していたところ、新鮮な形でそれらの予想が悉く裏切られ、これまで経験したどのテンプレートとも異なり、「これ面白い!!!!!」が第一声。

オーランドの時間は止まらない

 クライマックスの映像から推測するに、360年どころかほぼ450年の時をオーランドは生きるわけなんだけど(プログラムに掲載されている年表によれば、オーランドが樫の木の詩を書き始める16歳は1586年とのこと)、観劇してまず印象的だったのが「ある年齢でピタッと時が止まってしまう設定ではない」という点。少年時代にバンパネラになってしまって、それ以来物理的には成長しなくなった、という系列とは違い、16世紀に16歳だったのが21世紀には30代になっていて、つまりとてもゆっっっっくりとはいえ年齢を重ねている…。。
 何が起きたのか、どういう理屈でまだ生きているのか、転生なのかなんなのか、その辺は(私が記憶している限り)ものすごい上手くぼやかしてあって、転生系の設定にしては「都度発生するはずの、生まれてからその年齢になるまで」の描写が見事にごっそり削られているし、あまりにも前の時代のオーランドと次の時代のオーランドが「極めて断絶なく、グラデーションで」変化していくので、やっぱり「一人の人間が400年超生きている」設定なんだろうなぁ、と思いながら観ていた(実際本当に「1人の人間の伝記」というのが原作設定とのこと)。ものすごいファンタジーだし、途中(特に19世紀後半に入ってからは)「なんなのよこのうるささは!!"何でもあれば良い"ってもんじゃないのよ!!」(だったっけな、ニュアンスなので厳密には違うかも…)とオーランド本人も変化に悲鳴をあげるんだけど、オーランドの内面の変化や成長が時代の変化とむしろとても同期しているように感じられて(=一つの現象が「異常」から「普通」に変わるまでに、それこそ何十年何百年という時間がかかるのと同じような変化が見えるというか、オーランドの中に時代が映されているように感じられて)、物理の設定を飛び越えることへの違和感を感じさせる間も無く、時代と価値観の変遷を一人の体で見事に緻密なグラデーションで体現し切った宮沢りえさん(+演出の栗山民也さん)に、スタンデングオベーションだった。
 忘れられないセリフは「私は時代に影響されるが、時代に服従しない」。ぜひ原作でこの箇所を見つけたい。

性を飛び越えるけど、安易に解放に繋がらず、どこまでもニュートラル

 トルコに大使として赴任している途中、30歳の時に、オーランドは女性になる。途中で女性になる、というのは公式のあらすじで読んでいたので、「女性に変わる瞬間ってどう表すのかなー」と注目してたところ、ローブを着た後ろ姿をオーランドとし、枠の向こう側にりえさんが現れて「鏡に映った、女性のオーランド」を演じるという、めちゃくちゃスマートでエレガントな演出で、美しかった。
 生理の煩わしさ、ハイヒールやコルセットなどの衣装の不自由さなど、「女性になって初めて知った」こと、「"女性同士のおしゃべり"に男性だった頃抱いていた想像とのギャップ」など、オーランドがその都度吐き出す戸惑いや呟きはとてもストレートで「うんうん(笑)。そういう感想になるだろうな〜(コルセット無くなったけど下着の悩みは形を変えてまだあるんだよこれが〜)」と生物学的な女性ネイティブ側として頷く箇所はもちろんたくさんあったのだけど、とてもさりげなく途中で挟まれる発言「人は女に生まれるんじゃなくて、女になるんだ(プログラムによるとボーヴォワールが1949年に提唱したことの先取り)」とか、「柔らかくて優しいものは、女性だけが持っている繊細さだと思っていたけど、それは男性の中にもあるのかもしれない(ニュアンス)」とか、「これは僕が男性だったからそう思うのか」、「女になったからこう思うのか?」といった自問自答などが、とてもニュートラルで、一つ一つ誠実に問いを立てていくような流れにとても好感を持った。
 雑に「女性/男性は不自由だー!」とか「男性/女性のが◯◯で良かったー!」といった主張に陥ることなく、オーランドはとても冷静に「自分の思考に否応なく影響してくるジェンダー」を客観視しようとしていて(最初から客観視できてるんじゃなく「客観視しようとしていて」というのが良かった。上の時間のところでかいた「時代とともにゆっくり変わっていく」のを感じられた一つがここ)、その変化の速度がリアルで面白かった。
 女性になってしまったことで、相続権を剥奪されそうになったり、自由に外を出歩けなくなったり、オーランドは様々な制限にどんどんぶつかっていくのだけど、安易に型にはめられることなく、どこまでも瑞々しく純粋に自分と環境と向き合おうとし続ける中、一番印象的だったのが「結婚しなきゃ!」と焦燥感に駆られるところ。オーランドほど自由を愛する人であっても、結婚しなきゃという思考になるのか…、とそこが衝撃だった。もう一回観劇できたら、ここの前後のセリフに耳をそば立てて、時代がそう思わせてしまうのか、何がオーランドをそう追い込むのかをもう一回丁寧に読み取りたい。これ、この後「子供を産まなきゃ!」って発言も出たりするの…?とやや緊張していたところ、こちらはあっさり産声と共にボンスロップとの間に一子(?)誕生していて、そこは省略なのか…!だった。結婚に比べたらこちらの意思と関係なく進む/進まないのが確かに出産。。

 クライマックス間際、車を運転してデパートに買い出しに行くオーランドの「どこ見て運転してんのよ!!!」が、すっかり最初の16歳の少年から遠く離れたのを感じさせ、いかにも現代のリアクションに(私にはなんとなく90年代に感じられて、"今の"というよりは少し前の印象を持った)。オーランドの魂自体が変質したというより、オーランドの暮らす世界自体のテンポが昔に比べて格段に加速してしまったから、それによって言葉も、リアクションもすっかり400年前とは別物になったんだ、と腑に落ちた。

一度観たら忘れられない各時代のキャラクターたち

 400年を生きるオーランドを取り巻く各時代の人物が、これでもかというほど濃くて強烈な印象を残す人ばかり。
 芸達者な皆さまが何役も演じ分けて、2時間半の世界のメリハリをくっきりつけてたのが贅沢で、最高に楽しかった!!!!!!「オーランドー…オーーーーランドーーーー」という呼び声がまだ耳の奥に残っていて、時々ふっと蘇る。

 河内大和さん演じる冒頭のクイーンエリザベスのおぞましさ(褒めてます)、売春宿でのネルの愛おしいやけっぱち感と悲哀、谷田歩さん演じる執事のコミカル且つキリッとしたプライドを感じさせる絶妙な間合い、ボンスロップのミステリアスながらとても深い葛藤と哀しみを湛えたような静のお芝居、ウエンツ瑛士さん演じるハリエット皇女のヒステリックな迫力(後に明かされる、実は皇女じゃなく大公=男性でした、という展開に、だからかー!!!!ととても納得)とハリー大公の何度も観たくなるやぶれかぶれ感(ハエのところ他のお客さんと一緒に爆笑だったし、ほんとりえさんも谷田さんも併せて素晴らしい緩急だった!!)。ウエンツさんに関しては、なんといっても後半に登場する"骸骨"の完成度。最初、アンドロイドとかかな??と思ったのだけど、セリフに「骨の隙間を砂が」とあり、む?骨??と気になってたところ、プログラムによるとなんと"骸骨"。パンツ一枚だけの衣装なのもあり、見事に鍛え上げられた美しい肉体美がめちゃくちゃ目に飛び込んで来るので「あんな美しい筋肉を目に焼き付けておきながら、設定骸骨なんかーい!!!!」と観劇後思わず突っ込んだけど(笑)、舞台の端から端まで一切瞬きせずに一点だけを見つめて、まさしく「生きてないもの」としての動きを緻密に美しく全うしていて、すごい技を観たなと思った。
 皆さん全員で演じてらした、トルコの草原に生きるジプシー達の不気味さ。オーランドは憧れたけど、絶対に馴染むことのできないコミュニティなんだなとひしひしこちらに悟らせてくる強い断絶感。
 山崎一さん演じるニックは、唯一「オーランドと共に」400年に渡って登場し続ける人物で、「いかにもこういう人、いるー!!!」と今回も山崎さんの「上手いと思わせない巧さ」に痺れてニヤり。ニックの存在に(たとえ最後まで文学に対するスタンスは相入れないものだったとしても)どれだけオーランドの孤独は和らいだだろう。「現代」になってからの、「わかりやすさばかり求める人々への」娯楽提供者としてのセリフにはとても風刺が感じられて、この部分はきっと原作には無い、栗山さんが添えた箇所なんだろうなぁ、と思った。 

照明・美術・音楽

 窓からの照明が!!!上手手前に設置されている窓から外(=舞台袖)をオーランドが覗くシーンが何度も出てくるのだけど、照明だけで、国・自時刻・窓の外に広がっているだろう空気感や喧騒までを全て描いていたのが、文字通り目を見張る素晴らしさで、「美しいだけじゃなく、しっかり物語を必要十分に支えて語る照明だ」とゾクゾクした。
 オーランドの迷いや孤独を表すスポットライトや、変わらず400年そびえ続ける樫の木、舞台後方の白い壁の美しさも素敵だったけど、圧倒的だったのはやはり窓。
 音楽は、今回ほぼバイオリン一本で、これまたスタミナ勝負な凄いパフォーマンスなのだけど、メランコリックな調べから不安を掻き立てる旋律までとてもいいバランスと寄り添い方で、ストーリーの繊細さを際立たせてた。

ラストシーン

 現代の紛争、おそらくガザの映像が流れた後で、爆音と共に舞台天井から大量のゴミ(新聞紙やペットボトルや、その他クッション?のようなのもあったような)が降り注ぎ、オーランド含めて全員が倒れるのだけど、起き上がったオーランドがその中から赤ちゃんの人形を拾い上げ、抱き上げて舞台奥に向かって歩いて行く(あれは赤ちゃんじゃなく、「赤ちゃんの人形」と解釈)。どういうメッセージなんだろう、なんのメタファーなんだろう、と観劇後ずーっと考えていて、まだ「これだ!」という案が自分の中では浮かばず、これを書き終え次第他の方の感想を読んで色々な解釈に触れるのを楽しみにしてるのだけど(もし2回目の観劇機会が持てたらきっと受け取れるものが増えそうな気もするのだけど)、初見での印象としては、「どれだけ色々な主張がぶつかり合い、富の奪い合いが起きたとしても、子どもだけは立場に関係なくその混沌から解放して守らなくては」というメッセージとして残った。

おわりに

 りえさんのお芝居に心震える経験は今までもあったものの、今回のオーランドはさらに素晴らしく、観終わった瞬間本当にどっと消耗するくらい、こちらの集中力を最大限に引き出して強烈な体験をさせてくださる濃さだった。400年、時間も性別も国境も文字通り超えて生き抜いた魂を、パッチワークじゃなく見事に「一人の人間の半生として」体現してらして、折に触れて出てくる詩や散文ともとても調和していて、圧倒的だった。迷わずスタンディングオベーションを経て帰宅。生で観るチャンスに恵まれて本当にラッキーだった。

 今日現在、観劇後2週間ちょい。この後誤字脱字を修正したり、思い出して追記する可能性ありですが、一旦upします。
 ここまで、大切なお時間で読んでくださり、ありがとうございました!


参考にしたもの

公式サイト

公式プログラム

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