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いつかむかえるもの



それが生き物としてこの地球に産まれたものたちすべてに避けられないことだと思う。

だって、未だにわたし自身はつよく人に《生きて!》とはいえない。
『いっしょに生きていけたら嬉しい』が多分ギリギリだ。

小さな頃からずっと病気だったから麻痺しているのはきっとある。だって、ほんのちょっとでもそれ以上悪化したらぽっくり死んでしまうからだ。
酸素テントに入ったり、何度も死にかけながらもわたしが今も生きているのは医療スタッフたちと医療技術、そして家族の多大なるサポートのおかげとほんとたまたまという運である。
今も絶賛体調不良中だが、これくらいだと死なないから大丈夫という考えが主なので自分の生命に関しての関心は今でもとてもとても薄めだ。
かなしいかな。
発作で死なないラインがわかってしまったし、医療技術の高さにわたしは立ち向かう手は一つも持っていないのだ。

死の受容の5段階というのを平林さんの記事で初めて知った。
わたしほんと《死》に関して麻痺してる。

受容するものだったんだ!って目からうろこでなく目ヤニがおちた。
かなしい。

勘違いする人はいないと思うけれど、この平林さんの記事は生きていくための智恵の杖になると感じている。

そもそもわたしは神さまには言いたい。

なんで迎えにきてくれなかったの?と。



ヒッキー時代にあんなに死を願って死にかけても
神さまは迎えになってきてくれなかった。



わたしずっとずっと待ってたのに。



このときは祖父母の死によって、母と共依存関係にもどる恐怖が根底にあったから死にたいと思ったのだとおもうけれど。
そのことに気付くまでしばらく立ち直れずにいたけれど、今はぷーながら人生を楽しんでいるとは言える。
ただ、気付くのが遅すぎて母方の祖父を初めとする大好きな親戚にさよならもありがとうも言えなかったことだけは心のシコリとして今も残っているけれど。

あのひどい時代のわたしを知っている親戚たちからはすごいともてはやされることには未だに違和感がある。

だって、ただ積極的に死のうという気持ちをもつのをやめただけで、別に積極的に生きたい派に鞍替えしたわけでもないのだ。

死んでしまったらしょうがないって思う、自分から死ぬのをしようがなく諦めた派なのだ、結局は。

だからというわけではないが、病気の人に関してはわたしは尊厳死も安楽死も賛成だ。
だってほんとしんどいもん。
そのまま眠ったほうが楽だもの。
原罪を償うためにとか生きてたくないもん。


そう、尊厳死に近いことなら多分、祖父母と昨年の春に見送った父に関してはそうだったのではないかとも言える。そのおかげかはわからないけれど、父に関してだけいえば看護師さんたちとの会話の途中で眠るように亡くなったとのことだったので、心からよかったと今でも思っている。

たまたまだろうけれど、ここ数日死に関しての記事を話題をを目にすることが多かった。
もしかして死を望むのが《悪》と考えるから、複雑な問題になっているのかなと個人的には思ったりする。

そこで。

将多さんのこちらの記事は多くの皆さんにぜひとも読んでいただきたい。

あなたがどのように感じるかはわからない。

だけれど、《死》との向き合い方の一つをここからなにか一つでも感じてくれたらいちファンとして嬉しい。

あなたのとって

《死》は向かえるもの? 迎えるもの?