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勝手に救い救われる毎日への祈り

最近、ずいぶん前に思わぬところで言った私の一言が誰かの背中を押していて、感謝される、ということが立て続きました。

友人A「⚪︎⚪︎はじめようか迷ってるんですよねー」
私「じゃあ、今日はじめちゃったらいいんじゃないですか?」

とか。

私「私は⚪︎⚪︎するのが好きなんです」
友人B「え、それいいですね、私もやろうかな」

とかそんなくらいの、本当に軽い会話でしかありません。

私自身も忘れてしまったようなそんな会話から、時には1年以上たってから、
「今でも忘れないです。あの一言があったから、一歩踏み出せたんです。ありがとうございました」
と言っていただいて。

もちろん、その逆の、真剣に相談に乗ったり、その人が喜ぶと思って頑張ったりしたことが、あまり功を奏さないことで、自身の無力さを思い知ることも多いのですが。

それで、改めて思うのです。

自分の認識の範疇からのアクションなんてたかが知れていて、その人のためを思ってやるからその人のためになるなんて、本当に思い上がりも甚しくて、それは単なる自己満で。

もっとそういうのを超えた大いなる人の営みの中で、人は影響しあって、救ったり救われたりしているんじゃないかなぁと。

現に私はその一言に救われました。

私の一言が、誰かにとって大切な一言になったというそのことを思うと、最近涙腺の弱い私は思わず泣きそうになります。そのくらいうれしいです。

音楽も絵画もいろんなアート作品なんかもそうです。
本来の意図とは異なる場所や文脈で誰かの人生を変えたりすることもあると聞きます。

私もその大いなる営みの一部でありたい。
その良き循環により関与するためにはどう生きればいいんだろうと思うのですが。

なんというか、そういう、偽善的な気持ちは営みの輪からはじかれてしまうような気がします。

これは、世の中を救うために直接的なアクションをする人を否定するものでは決してなく、それはそれで世界に必要なことだと思っています。

私が思うのは、もちろんそういった直接的なアクションもしつつ、できればそのささやかな救いの輪への関与度をあげていきたいということです。

そのためには、「いいことをしよう」ではなく、「人とかかわる」ことを諦めないということしかないんだろうなぁと思いました。
「思いを伝える」「自分を表現する」というようなことも含まれると思います。

私はポッドキャストをしたり、仕事で誰かの活動を発信して拡散を図ったり、常に何かを伝え続けています。
それらにはある程度目的があり、わかりやすい成果や実利を求める部分もあるのですが、もっと長いスパンで、淡く優しい距離感で、誰かの明日が明るくなればいいなと祈るような気持ちを胸に(1日1日の成果はそれほどなくても)、今日も目の前の、これなんだろうと思う仕事と向き合うのでした。


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