(10/1日記) 言葉にすること。循環と感謝について。
最近は頭がよく動く。グリグリと動き回っている。
早足で散歩し続けているようである。そのため言葉がたくさん溢れてくる。だがそれの行き場がない。
いつまでもX、旧twitterに投稿し続けているのも何か、場違いなもんだからなぁと、noteに書くことにした。「あぁ今、頭の中で起こっているのは、とにかく日記だな」と、そう思った。
まだ誰かに「これ!」と伝えたいわけじゃないけれど、誰かの目に触れていること、触れる可能性があることが、他の視点を獲得することになり、自分のためになると知っている。
9月は文字を書き続けていたのだが、あまりの量が湧き出てきて、思考と言葉にキリがない。思考すること、言葉を生み出すことの、その感触が、今は楽しくて仕方がないのだ。だからどうにかして、内側から外側へとおいていきたい。それがスッキリとする。
その日気づいたことなどを、タイムラインに載せ続けているのも何か、押し付けがましい気もしていたから、今はここに書くくらいでちょうどいいかなと、そういう理解に至ったんです。
「言葉にすること」とは「間違えること」
言葉にすることとは「間違えること」だと思う。
その時々の確信が、それを発した途端に間違いであることに気が付くことが、よくある。
頭の中での確信が、メモに書き出してみたら違って見える。人に話してみたら、また違って見える。そうして理解は進んでいくのだが、それと同時に、外に出すほどに「間違い」の発生に気づく。
「言葉にすること」というのは「間違えること」であり、「実践すること」であると思う。
吐き出してみて、入ってくる。
どんなことでもおそらく、「出す」が先に起こり、「入る」が後からやってくる。だから先に強く押し出さなければならない。
その過程に「間違える」が発生する。これに怖がっていると、次からやってくるはずの「入る」が詰まりを起こして入れない。執着を捨てるというのは、そういうことなんだと思う。
「たくさん間違えていい」「失敗は成功のもと」というのは、こういった理屈から起こるのだろう。
「出す」とは、アウトプットのことである。その根源は思考である。思考することは、「出す」の始まりである。
思考することで、入ってくるもの、見えてくるものがあるという実感がある。だから、間違いを怖がらずに、出してしまえばスッキリするし、空いた空間に、新たに宿るものがある。そういった理屈に気がついた。
"循環"の実践
窓を開けてみると、風が入ってくる。
何か特別頑張らなくも、自然と風が入ってくる。これにあまり気がついていなかった。
「稼ぐ」という言葉には、自力で風を吹き入れようとするような印象がある。だから、いつまでも意味がわからなかった。その理屈がわからない。ピンとこない。
「奪う」という印象がある。それではまるで、相手は敵で、それを戦いによって打ち取ったり、目をくらまして騙し、その隙に取ってやろうと、そういった印象からいつまでも抜けられずにいるのだ。
「ならば、俺はそんなのいいや」と思っていた。苦手なのである。罪悪感が積み重なっていくような商売や、人間関係が続けられるほど、精神がタフにできていない。
だけれども、ならば、1人で引きこもってやろうと試してみた。だが、それもまた全く上手くいかない。どんどんと空気は悪くなっていく一方だった。
ここで"循環"というキーワードに行き着いた。「そうか、循環への理解が足りない」と、なぜかそう、突然思ったのだ。
本当は、窓を開ければ空気が入ってくる。誰かは「空気が足りないから」といって、空気を「稼いでいる」いるのかもしれないが、本当はそんなの必要ない。
節約生活を突き詰めてみれば、いかに「1人」が生きていく上で必要なお金なんて、たかが知れているのか、すぐに理解できる。
風通しをよくしたい。それが人として、スッキリと気持ちよく、深い喜びを得られる秘訣なんだと確信した。
これまで誰かからお金をもらうことに引き目を感じることもあったのだが、それは、誤解だったように今は感じる。
お金も、物も、空気も、身体も、世界からの"借り物"にすぎない。だから、その循環を絶ってしまうことが、自然の理に反していると気がついた。
より多くを差しだすことで、より多くを受け取る。そんなフィルターのような、循環器のような、風のような、川の流れのような、そういった心地よさを生む機能として、役割を果たせたならば、そこに罪悪感など抱く必要はなくなる。
誰かから何かを受け取るならば、それは自分のためではなく、誰かを満たすことに使えばいいのである。循環とはそういうことであり、それこそが社会参加であるように感じている。
そういった循環の実践として、今は思いついたものから手を出し、感触を試している。
"感謝"の実践
"循環"のキーワードをもとに、"感謝"というキーワードに行き着いた。
循環の理解として「先に出す」「先に与える」ということが、物事を進めるという気がした。
部屋を綺麗に保つのであれば、物を捨てなければいけない。手放さなければいけない。いつまでも溜め込んでいるから、どんどんと無秩序に汚れていってしまう。
「捨てる」というのは教養がいる。「得ること」は欲求に従って起こるが、捨てる時にそのワクワク感のようなものはあまりない。理性的な行動であり、理性的な感情である。それを教養と呼んでいる。
そこに生じるのは、感謝だと気がついた。手放すことには、感謝の気持ちが必要である。未練があれば、手放すことができない。有難さを十分に味わえたなら、手離すことができる。そして循環が起こる。
人に対しても、普遍的な感謝が「出す」に当たる。「有難い」が「ありがたい」のは、それを感じ取れた感性があるからだ。
人は感じ取ったものに感動をする。感動するものに、感謝の念を持つ。その感謝の気持ちが循環を起こす原動力なのだと気がついたのだ。
感謝ができると、風通しが良くなる。感謝とは、手離すことでもある。断続的に受け取っているものをよく感じ取れたならば、自然と主観的な恩返しは起こる。そう感じた。
その一環として、思考し、言葉を生み出してみる。よく感じ取ってみると、言葉はよく湧き上がる。行動の質感と量が変わってくる。
その実践の中で、新たに気づくことがある。それを元に理解が進む。それを繰り返えせるのであれば、人生は素敵になる。
あまり苦しみたくはないのだ。
受け入れられない苦しみを抱えながら、人生を続けていくにはあんまりにも長すぎる。自分も他人も世界にも、快適な気分でいてほしい。安らかな気持ちで、残り時間を過ごしていたい。
そうでなければ、"これから"を楽しい気分でやっていけるような気がしないのだ。
まとめ
ここに書き出すことは、あまりに具体的でない抽象的なものばかりである。誰かの役に立てたらいいけれど、誰かの役に立てる見立てがまだまだついていない。
できることから手をつけて、なるだけ喜ばれるような生き方をしていたいなと、ようやく今は思えるのだ。
これからこれを書き続け、何かいつも同じことを言っていると思わせてしまったら、それは申し訳ない。
究極のところ、同じことを思っていて、それをいろんな角度から、言葉にしてみる、表現してみる、そして理解を進めるという、そういった心づもりなのである。
一発で完璧な線を書くことはできないが、デッサンで書くように、何度も線を重ねて、理想的な形へと近づいていく、そういう試みなんですよ。
たくさん理解するために、たくさん間違えなければいけない。まだふんわりとしたイメージだとしても、何かしらの映像が見え出している。それは未来について。
「要するに」とか「簡単な言葉で」とか「わかりやすく」というのはまだまだ難しい。自分の中ではピンと来だしているものを相手に伝えるには、相手の言葉を理解しなくてはならない。修行ですね。
日記とするならこちらも気がラクで、自分のためにもなりそうですよ。
ウイスキー飲みます🥃