見出し画像

ゴフスタインとの想い出

M.B.ゴフスタインという作者の名前にピンとこなくても、子どもの頃、または読み聞かせで、『ブルッキーのひつじ』を手に取られた事のある方は多いのではないでしょうか?アメリカ、NYを拠点に画家として活躍、そして多くの絵本を著したゴフスタインは、2017年逝去。2000年の始め、大好きだった書店に入社し特に児童書に夢中だった私は先輩の影響で多くのゴフスタインの作品に出会い、”言葉にできない”衝撃と影響を沢山受け取りました。

『私の船長さん』/谷川俊太郎:訳

誰のかも、何処かもわからない小さな窓辺で、"置物”の「わたし」は、今日も待っている。すてきなあの船の「船長さん」が、いつか私を迎えに来て、そして船へと、招待してくれるのを――。極限なまでにシンプルで、無駄のない、感傷とは無縁の線画に、モノローグのようにぽつりぽつりと語られる言葉。誰かを恋していたときも、そうではないときも、暖かな「愛」そのものに憧れていたときも、幾度も私を慰め、あたためてくれた作品でした。ゴフスタインの作品は皆そうなのですが、読み手によって色々な受け取り方ができる作品だとも思います。「私の船長さん」。タイトルが、素敵だと思いませんか。会ったことがないことも、決して叶わぬかもしれないことも、この場合は関係ない。真っ直ぐに信じ、真っ直ぐに前を向く。現実は捉え方次第で、どんな未来も希望も、「私」に運んでくれるのです。

『ゴールディのお人形』末盛千枝子:訳

ゴフスタインと親交し、その作品の紹介と普及に尽力されてきた元「すえもりブックス」の末盛千枝子氏。一度、知己をいただいた事があり、厳しくも温かく、そのお人柄に触れられたことがかけがえのない想い出です。ゴールディは人形作りが大好きな女の子。そうして細々とながら生計をたて、自分の人生に、仕事に、曇りない瞳を向けています。そんなある日、自分の信念と信じていたことにふと投げかけられた、友人からの心ない(本人はそのつもりもない)言葉。ゴールディにとってそれは通過儀礼のように、今まで感じたことのない苦しみや疑い、自分自身に対する自信さえも、揺るがせてしまう体験でした。しかし誰の手も借りることなく、彼女はゆっくりとそして確実に自分を取り戻し、今まで以上に確信と「誇り」とを持って、仕事に、人生に、そして周囲の人へと、心を開けるようになるのです。ゴフスタインの作品には、”職人気質"ともいうべき登場人物が沢山登場しますが、それはとりもなおさず、作者である彼女自身の制作の姿勢、生きる姿勢そのものであったのかもしれません。心が弱るとき、全て投げ出したくなるとき、誰でもあるけれど、簡単に「あきらめるな」とか、無かったことにするように目を背けることは逆効果です。自分を見つめ直し、自分の手と足を動かして確信していく。終わりなどなく、何度も何度も。「ものづくり」への本当の喜びも幸せも、そういうことなんだと、厳しくあたたかく教えてくれる作品です。

『ピアノ調律師』末盛千枝子:訳

「痛い」という点では、『ゴールディのお人形』以上に、痛みに満ちた作品かもしれません。それは手に取った当時の、私自身に響く何かがあったのか。今読むと、それ以上の、希望と明るさに満ちていることが分かり、本当に素晴らしい作品です。帯になっている言葉――「人生で自分の好きなことを仕事にする以上に幸せなことがあるかい?」反発や冷笑はいくらでもあるでしょう。特にそれらが所謂”マウント”としてのさばることが許されてしまってきた世の流れで、一人一人、誰でもみんな、自分自身ほんとうの”願い”にもう一度、怖がることなく目を向けてほしいのです。その頃とは変わってしまっていてもいい。変わってしまったことを、悪いことだとも思わなくていい。願ったこと、欲しかったこと、夢見たことを、そんな自分をどうか肯定してほしいのです。自分が自分に対し、蔑むだれかに対し、ミスコミュニケーションから傷つけあう人々にも愛する人にも、卑屈になる必要などないのです。人の数だけ仕事がある。人の数だけ役目がある。夢の数だけ、希望がある。希望があるからこそ愛を育み、誰かを幸せにする【仕事】を生み出す―― “天から役目なしに降ろされたものは1つもない”漫画・ゴールデンカムイからの引用ですが、ささやか過ぎて時に忘れがちな人生は、常に自分自身、そして自分の大切に思う人・モノと結びついていることを、思い起こさせ、勇気をくれる名作です。

『おばあちゃんのはこぶね』谷川俊太郎:訳

作者自身が「おばあちゃん」でない時期に、ゴフスタインはどうやって、”おばあちゃん”の想いをこんなにも汲み取り素晴らしい物語を書き上げたのでしょう。老いて死ぬこと。私もとても怖いです。私よりも人生を先に進んでいる、当たり前だけれど両親を、家族を、失うことがとても怖いです。考えたくは無い。けれどそうした人々が大切にしてきたこと、遺したいことを、はたして"そうなった”後で、知ることができるのだろうか。ゴフスタインの描くおばあちゃんの、想い出、愛、幸せ、はにかみ、宝物、その全て――。人生を、自分自身を肯定することが、周囲にいる人間にとって、どんなに大切なギフトなのか。そしてそれは、どうして日常においてはこんなにも、伝わりにくいのか。昨日、直そうと思ったこと、こう生きたいと願った善き心がけを、忘れ削れながらただただ前を向くだけの私。そんな情けなさは、いつか「おばあちゃん」になってその箱船のように大切なものを手に取ったとき、いつか全て許せるのでしょうか。「箱船」のような宝物を、きっと今、周囲にあふれさせながらそれが宝だと気づいていない。そんな自分でも、嘘でなく、誰かを家族を、幸せにすることができるんでしょうか。したいと思う、その気持ちに何度でも立ち返ることだけが、行動よりも言葉よりもまず先に、私という命が日々、何かを得て何かを削りながら進んでいく、たったひとつの役目でありすべきことだと信じています。

【ゴフスタインの作品、そして末盛千枝子さんについて】

「現代企画室」というサイトにて、かつてすえもりブックスで刊行されたゴフスタインの作品の、復刊企画が行われているそうです。以下URL、ぜひともご覧いただければと思いここに記しておきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?