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忘却とラベンダー

 ある、使用人が陽光を楽しむために海へ出払っていた初夏があり、それはまだ人に花を贈るということを知らない日々だった。夏の夜という浅い眠りで薄靄に浸っていた街が目を覚ましても、塀とその奥に広がる植物園を超えて私の屋敷に朝が届くまで、しばらくかかる。青い光だけが一足早く窓枠の隙間から室内に入って絨毯に落ちる間もなく霧散する朝まだきには、着替えて身支度を済ませる必要がある。私は世間で言うところの労働についている階級ではないが、働く必要がなくても世の中の動きを知るために新聞くらいは読んでおいた方が良く、屋敷に誰もいない期間は新聞をとりに行かなくてはいけなかった。応接室の中央にある階段を降り鍵のかかった扉を開けて、植物園に続く石段を降りていく。

 早朝だというのに空は暗灰色の雲に覆われ、庭園の地面に敷かれた細かな黄色い砂利は靄を吸収して柔らかく足音も響かない。遊歩道を進むと低木が小さな花をつけ、その脇に一塊の花が赤や桃色、白の花を咲かせているいつもの風景が続く。大きな木が枝を高く張り出している塀の脇に、小さな名札が下がっているのをなんとはなしに眺めながら歩んでいく。流れるような筆記体で白い木片に樫、と書きつけられた名札は紐で木の幹に結ばれていて、少し斜めに傾いている。道なりに樫の木へ近づくにつれて、雨風にさらされた名札の文字が目に入る。濃茶色をした園芸用の撥水インクで刻まれた文字は父のものだ。十数年前のこの冬、脚立で剪定をしていた父は足を滑らし首の骨を折ってこの世を去った。以来私のものになった植物園は、かつての主人の面影を今でもそこかしこに忍ばせている。手製の木や花の名前を書きつけた名札や木でできた小さな日時計など、そんな遺物たちが緑の園を醒めない眠りに留めているのだ。そして現在屋敷を所有している私はというと、父の墓参りも何度か行ったきりで物心つく前に亡くなったと聞かされている母の色褪せた肖像画も埃がかぶるままにして、かと言って世間との付き合いも例外的な一人を除いて全くなく、毎日無為に過ごしているのだった。

 新聞受けは、いつも通りそこにあった。いつも通りでなかったのは、銅製の新聞受けの足元で咲いていた勿忘草の場所だ。ごく淡い青紫色をした五弁の花びらを数十ほど、桃色の混じったつぼみも混えて猫の背くらいの位置でこちらに向けていた。そこにあったのは確かに穴で、あの小さな花はどこに行ったのだろう、と不思議な気持ちになった。そして、どうして土が湿った部分まで地上に見せているのか、野良猫の目を掻い潜って野兎が掘り返したにしても、野兎の好みに合うとは思えない、などなど考えながら新聞を開き、数歩読みながら進んだ。だが足はそこで止まって、急いで郵便受けが無言で立つところまで戻ると、なぜ気がつかなかったのか、穴の底で途中でちぎられた勿忘草の根がこちらを見上げていて、うっすらと足跡もそこかしこに残されている。屋敷に他の人間はいないにも関わらず。自分の物を盗まれるという感じを、私はそれまで知らなかったので、屋敷に戻ってから部屋の中を意味もなくうろつき、長い間気分がすぐれなかった。

 霧が晴れると共に盗みが晒されたその朝の次の次に屋敷の外にでたのは、黒檀の杖をついた婦人が扉の前に訪れた時だった。渋い紫色の肩掛けを羽織り直して、扉から杖を下ろした先生は顔中を皺にする。

「そんなに叩くと、杖が折れてしまいますよ」

「平気よ。それより、入っても構わないかしら。待ちくたびれたわ」

 屋根裏で探し物をしていたので、と侘びながら一番近くにあり、それでいて一番窓の大きい応接室を開ける。

 

「花盗人を責めてはいけない」

 勿忘草の話を聞いて、先生はそう言った。ソファに浅く座った膝の上で、黒いレース糸の手提げに何かを探している。彼女を一瞥して、注ぎ終えた湯気の立つ紅茶を茶菓子と勧める。

「確かにそうですが、そいつは泥棒に変わりはない」

「昔の人はいいことを言ったもの。美しい花を手に入れたいと思うのは、人の心です」

「わかっています。私は別に、盗人を責めているわけじゃありません。償わせるんです。家の庭を荒らしたんですから」

 ようやく手提げから金のツルのメガネを取り出して、小さな鼻にひっかけると先生はこちらを見る。向かいのソファに座わりそれを眺めていると、犬に追いかけられて泣きながら帰ってきた日の先生のことが思い出された。事件があってから袖口に現れた心因性の発疹に彼女の視線を感じながら、私は紅茶を飲み、彼女も続き、器を置く。

「警察はなんて」

「まあ、見回りを強化します、とは言っていましたね」

 詭弁だ。保身だ。警察に電話をしたあの朝、彼らはやってきて現場を少し見聞してはああだこうだと歩き回り、庭を見回し手入れが大変そうだなどと見当違いのことを言って、被害届を受理すると街へ帰って行った。長い間使われていなかった、色褪せた被害届が警察署の奥深くの棚で紙挟みに綴じられて埃をかぶり永久に取り出されることがないのはわかっている。一見凶悪ではない軽犯罪を、彼らはこう言って見過ごすのだ。子供のいたずらかもしれませんね。

「誰のいたずらだろうと、必ず捕まえる。これは挑戦だ」

 立ち上がり、部屋を行ったり来たりしながら策に考えを巡らせる皿から茶菓子が取られる音がして、それからもう一度茶器が受け皿に置かれる音がする。

「あなた、最近評判が良くないわ」

 振り返ると、先生は眼鏡を直して遠くを見ている。緑の瞳の縁がぼやけるように遠くを見る。窓の向こう、庭も通り越した向こうにあるのは、父の眠る墓地だ。今は墓地管理人が、芝を刈ったりごみを拾ったりしているだろう。                                                                                  

 子供部屋で彩り豊かな飾り絵のついた本を開いて先生に読み書きを習っていた午後のことだったと思うが、何かいるものはないかだの、使用人たちの行き来する音がうるさすぎないかだのと用をつくっては扉を細く開けて顔を覗かせる父を、にこやかな表情と言葉とは裏腹に、鋭い眼差しで追い返すのが先生の常だった。あの日とはどこか様子が違う先生の眼差しは、何かに思いを巡らして、しばらく宙を漂ってから不意に私の方に向けられた。ソファの上で居心地悪く居住まいを正し咳払いしてから、手を振って視線を逃れる。

「過激なことはしませんよ。心配いりません」

「人は見ているわよ。いつも街を見下ろしてきた、この館のことを」

「大丈夫です、先生」

 空を占めていた雲間に太陽が顔を出し、敷き詰められた紅色の絨毯が空気を暖めていた部屋は一層暖かさを増した。内向きに窓を開けると清廉な陽光が窓辺に座る私たちの足元を照らしたが、なんとも言えないわだかまりが当たりを漂っている。

「とにかく、なんとかします。そのための方法もいくつか考えています」

 いくつかというのは口から出たでまかせで、実際はようやく思いついた一つのやり方を先ほどまで屋根裏で試していたにすぎなかったが、埃だらけの屋根裏、と思い出したところで話題を変える口実が浮かび思わず表情がほころぶ。

「話は変わりますが、今度蔵書を刷新しようと思っていたんです。以前見てもらった時から何も変わっていませんよ、あの図書室は。歴代の家系図なんかが隅で紙束同然になって」

「そうなの、それで?」

「そこで、先生の意見を聞きたいと思っていたんです。どの本を残すか、目録を今お渡ししますね」

 先生が居住まいを正したのを背に感じながら部屋を出て、目当てのものとすぐに部屋に戻る。

「先代の先代が好んで読んでいた倫理学ね、ぼろぼろで修復しようがないなら、もういいでしょう。それから、北の学都で書かれた哲学書、あれは良いという噂、読むに値する本です。今後もね」

 インク壺にペン先を浸して本の題名と作者の名を先生が書いていくのに、素直そうにうなずきながら、これからもこのように物事を運んでいくのだと、どこか虚しさを覚え、彼女を気の毒に思う。花泥棒の所業に先生にとって思わしくない結果を与え、それを知らせることがないだろうことや、今後この屋敷が新たな子孫へ引き継がれることはなく、先生が選書している努力の甲斐もないだろうということが、いかんともしがたい申し訳なさを生んだ。窓の外はいつの間にか曇り始め、霧雨が降り始めているささやかな音が聞こえてきた。

「それでは、また会いましょう」

「はい、また来月にお待ちしています」

 先生の杖が玄関の階段を注意深く叩いて、植物園の小径を色褪せたステンドグラスのような夕陽の中遠ざかって行くのを見送る。遠くに門が閉まる音が聞こえるか聞こえないかのところで中に引き返し、先生が来訪する前にいた場所へ戻る。

 一度落ち着いた埃をもう一度舞上げながら、屋根裏に積まれた大小様々の箱を降ろしたり厳重な紐をほどいたりしていくうちに、それが見つかった。乾燥し切った安い木材を組んだ箱に古い蝋紙でごく簡単に包まれている。紙をどけて木でできた表面や金属の長い糸がまだ使えるかを軽く引っ張り確認する。古くなった金属に特有の尖った匂いがするが、大きな故障は見当たらなかったので箱ごと階下の植木職人が道具などをしまっている小部屋へ運ぶ。あとはこれをしかるべき所に設置するだけでいい、そう安心したおかげか、その夜はいつもより深い眠りについた。

                  《続く》