屋根の上

  1

 深夜零時をまわった。くらい部屋の奥にしいたふとんから、正面の壁にかけた時計の針が蛍光緑にひかるのを、僕は確認した。
 あと二分まって、いくか。
 すっかりあたたまったふとんの中でぼくは壁に向かって寝返りをうった。窓にひいたあわいクリーム色のカーテンをとおして月明かりが床に落ちる。
 あかるいな。満月なのか。
 そう考えていると急に部屋のドアが内側に開いた。とっさのことに僕は壁のほうをむいたまま、目をあけて身をすくめる。
 母だ。
 それから扉は十数秒、ひらいていた。僕はねまきすがたで立つ母のすがたを思いうかべる。さえた耳はおちつかない母の息づかいもとらえる。
 開いた時とおなじ速さで、扉はしまった。それと同時に家のかびくさい空気もながれてきて、鼻の奥をついた。どこか物悲しくて、秋の今頃に似合う、と感じた。
 ねんのため、母がねむりにつくまで数十分待った。
 十分によし、と思えるまでまってから、僕はおきあがった。

 秋のおわりの満月は、小さな町を照らしつくすように輝いていた。窓からそとにでて、塀をつたって道路へおりた僕は、てのひらについた塀の汚れをはらった。
 しばらく、静まりかえった住宅街の間を歩く。
 コンビニや駅の方へは向かわず、ひたすら家々の並ぶ方へすすむ。密林をすすむように足取りは確かだ。ときおり風がふいて、合皮のピーコートをはためかせた。
 そうするうちに、まわりより古い、一連の住宅地の始まりについた。いつもの場所だ。
 三十年ほど前に建てられた家たちは、隣の壁と壁のあいだが一メートルもないつくりになっている。そしてそんなふうに家が立ち並んでいる。
 周りに誰もいないことを確認して塀にのぼり、屋根からのびた点検用はしごに手をのばす。昨年からはげしく身長が伸びた僕にも、届くか届かないかの高さだが、どうにか届いた。はしごを握りしめると、塀と壁を順序よく蹴って、のこりのはしごに足をかける。
 十三段のはしごをのぼりきると、そこは屋根の上だった。
 ゆるく傾斜のついた三角の瓦屋根は冷たく僕を迎える。
 深呼吸をして、立ちあがると空を埋め尽くす星と目があう。 
 しばらくそのまま、電信柱の明かりや静かにゆれる木々を眺める。
 屋根の上で風は少し冷たいが、立ち並ぶ屋根を見下ろすのは気持ちがいい。
 群青色に溶け込み、はっきりと見えない道路をみると、白っぽいものが走っていった。ちりん、と鈴の音が後から追いかける。猫だ。
 一際風が強くふいた。ふたたび空に目を向けると、さっきよりも星を多く見つけられた。
 星の鋭いきらめきを吸いこむように深呼吸した。気持ちがいい。そう思った。
 つい一時間ほど前、部屋の扉を母が開けたことを思いだす。
 心のざわつきはなかった。もう大丈夫。
 苦々しかった気持ちは、空っぽになった体の底に落ちて、ちょうど良い重りになったようだ。
 強い風にふかれると伸ばし気味の髪がゆれ、すえたにおいがした。
 風呂に入ったほうがいいな。
 そう思いながら目を凝らし、遠くでぼんやり光る点を見る。学校だ。
 中学校の校庭は夜、社会人野球のチームに貸しだす。今夜も照明で白く光っている。
 学校に行かなくなってから一ヶ月と少し経つ。
 何が見えるというわけではないが、校舎の白い壁や黒く並んだ窓が見えないか身を乗り出した。
 その時、下の道路をなにかが回転する音が通り過ぎた。先のほうにある電柱の灯のなかに、自転車に乗った大きな背中が現れ、消えた。仕事帰りのサラリーマンだろうか。
 屋根の端からはなれ、隣の家に続く方へ歩を進めていく。
 斜めになった瓦屋根の上は歩きにくい。スニーカーの薄い底で、体重を慎重に分散させて一歩づつ進んでいく。
 空は漆黒で、月のまわりだけが群青色だ。屋根の端まで行くと、冷たい月光が僕の影を隣の屋根に投げかけた。
 隣の家の屋根との距離は、一メートルほどだ。足を踏み外したら、命の保証はない。
 ためらう間もなく、僕は大きく一歩を踏み出した。体重が隣の瓦屋根に移る音がする。
 同じように敷かれた瓦の上を音がしないように、しかしなるべく早く駆け上がり、体制を整える。
 今度の屋根の上には、少し長くとどまった。足の下では、どんな人が生活をしているのだろう。
 今、眠っているのだろうか。それとも起きていて、屋根のほうでなにか音がしたな、と耳を済ませているのだろうか。
 その人に家族は何人いて、仲がいいのか、それとも悪いのか。
 日中は外出しているのか、家で過ごしているのか。背が高いのか低いのか。太っているのか、やせているのか。幸せなのか、それとも不幸せなのか。僕のように。
 座って屋根に手をつき、そんなことをとりとめもなく考える。
 その上を、オレンジ色の光が速く進んでいく。聞きとれるか聞きとれないかくらいの大きさでプロペラが回る音も聞こえてくるので、ヘリコプターだ、とわかる。
 考え事も途切れたところで、次の屋根にむかう。
 端から端へ、屋根がとぎれるまでわたり歩いていく。
 そんな僕の小さな命がけの旅を、月がみていた。
 
   2
 
 部屋の壁に、朝日が窓の形にならって光をなげかけていた。
 目が覚めてから、階下に耳を澄ます。母の音はしない。
 スマホをみると、九時二十分を過ぎていた。
 しばらく布団の中でうとうとして、昨晩の分の寝不足を解消してから、僕は起きあがる。
 リビングのテーブルには目玉焼きとご飯が皿の上で僕をまっていた。
 父が家を出て、僕が学校に行かなくなってからも、母は毎朝こんなふうに食事を用意して家を出る。二駅先の病院で事務員をしているから多忙だが、いつも家のことを完璧にこなし、身なりを整えている。そして雑事の合間を縫って、放ってある僕のスマホの写真や履歴をチェックすることにも余念がない。
 書き置きらしいものが見当たらないところを見ると、帰りはいつも通り八時過ぎらしい。
 今日は時間があるな。朝ごはんを食べながら僕は支度をする。
 母の帰りが遅い日は自室にこもって、母の家宅捜索から部屋を守らなくてもすむ。
 ゆっくりシャワーを浴び、着替えると古いカメラを首から下げて家を出た。
 
 秋の冷たい空気が空を高く見せていた。
 三駅離れた街の中心はビルが多いせいか、いっそう冷えて感じられた。
 外れそうなカメラのレンズを時々調整しながら、被写体を探して、僕は街をなんとなくあるいた。
 駅前のビル群をいくと、ひらけた中央公園がある。広大な空き地の中に、端でキッチンカーが店を開いていたり、あちらでバドミントンをする人がいたり、という具合だ。
 空き地の行きあたりには大きな石垣があり、その上はちょっとした木が群生していて、城の壁と屋根がのぞいている。
 空き地の中程でカメラをかまえ、城にピントを合わせる。
 だめだ。ズーム機能がついていないので、城が目立たない。秋の青空と白い城を対比させて美しく撮ろうという試みは失敗だ。
 城と空の組み合わせは、昨日の夕方思いついて実行するのを楽しみにしていたのだが、実際にはうまく行かないものだ。
 僕は場所を移した。公園からしばらくいく。路面電車と鉄道の線路が交わる場所にさしかかった。
 ちょうど路面電車と鉄道が線路の向こうからやってきて、路面電車がとまった。
 わきの歩道で、僕は通り過ぎる鉄道と電車をカメラ越しに覗いた。
 電車と鉄道が同じ構図に収まっている。中には、こういう偶然を撮って喜ぶ鉄道マニアもいるらしい。
 でも、そういうのは、賞むきじゃない。
 鉄道と電車が通り過ぎてから、レンズを閉じた。
 それから繁華街を半周ほどしたが、大した成果は得られなかった。歩き続けて足に疲れを感じたので、目についたチェーン店のカフェに入った。
 安っぽい味のカフェラテを飲んで一息つき、カウンター越しに道ゆく人々を見る。
 くもりはじめた往来を行く人々の表情はさえない。
 ポケットから折りたたんだ紙をだす。何度も見た応募要項だ。
 日常の風景写真コンテスト、あなたがみつけた素敵な風景を応募してください、との文字が踊る。大賞は一名、賞金は百五十万円だ。
 学校に行かなくなってから街をぶらついて、考えなしに使っていたこづかいも底をつき、僕は金策に苦心し始めた。
 父の部屋に転がっていたカメラと現像用具一式が目に入ったのは、そんな時だ。
 父がのこして行ったカメラでコンテストに応募し、賞を取る。
 ばかみたいな夢物語だが、僕にはこれ以上なく魅力的な計画に思えた。
 賞金は遊びには使わない。それを元手にこの街を出て、都会でひとり暮らすのだ。
 しかし、とそこで僕は空想から覚める。昨年の大賞、と紹介されている写真を見る。冬の夜にライトアップされたダム、問題はこれだ。構図、色彩、インパクト、どれを撮っても素人の作品ではない。
 これを超える写真を撮らなくては、大賞は難しい。素人の僕には、受賞の可能性は極めて低かった。
 カフェラテを大きくのんで、気合を入れ直す。
 あれこれ考えても仕方がない。やるしかないのだ。僕は急ぎ足に店を出た。
 シャッターチャンスにそなえられるよう、カメラを持ち直し、周囲に目を光らせる。
 そうやって肩を怒らせたまま、繁華街をくだった。
 工事中の看板や裏路地の野良猫、古びた薬局やその奥で座ってこちらを見つめるお年寄り、いつもの風景だ。どれもありふれていて、目を引くものはない。色あせ古びた建物と人々、それがこの街の全体なのだ。
 はかばかしい成果は得られないまま、意気消沈して、自然と足取りは駅に向かった。
 夕焼けと言うにはまだ明るい水色の空に、薄い雲が刷毛ではいたようにながれている。母が帰るまでまだ大分時間があった。何より、成果のないまま帰るのはしゃくだ。
 本屋で写真の技法でも立ち読みしていこう。思いついた僕はきた道をひきかえして駅から少し離れた大型書店の自動ドアをくぐった。
 正面のレジ台を店員の目につかないようにそそくさと通り抜ける。いらっしゃいませ、といわれるのを避けたい気持ちがあった。何も買う気はなかったのだから。
 とはいえ書店にいると、時間をつい忘れてしまう。いろいろな本があると言う事実だけで気分が高揚するからだ。僕はエスカレーターで最上階へ行き、下へ下へと全ての階を見て回った。
 まずは最上階で写真の撮り方についての棚にいき、一番分かりやすそうな本をめくる。細かい専門用語はさっぱりわからない。大体こんな感じか、という印象をつかみ、隣の棚へ移った。
 そうやって本棚と本棚の間をぶらつき、気になった本をひっぱりだしては、立ち読みを繰り返す。
 美術関係と洋書を扱う階から、人文書と理工関係の階へうつる。
 人文関係の棚で、面白そうな本を物色する。ふいに数冊のタイトルが僕の目をひいた。
 「親子という病」。「母が疲れる」。親子関係の問題を扱った専門書とエッセイ風漫画だ。
 心に、ふいに不安が巻き起こった。不安は心臓の早まりとともに確固としたものになり、みぞおちに不愉快さをのこす。
 僕と母の複雑な関係が、数冊の本に集約できるわけはない。誰にも僕の気持ちはわかりはしない。でも一応、見聞は広めておいて無駄はない。
 とっつきやすそうな「毒親から自由になる方法」を手に取る。目次を眺め、気になる箇所を斜め読みして毒親の記述にいちいち共感し、興奮して本をとじる。次は「母が疲れる」だ。こちらの著者は、虐待とまではいかないが、独善的な母親に抑圧されて育った経緯が描かれている。ほぼ読みおえた僕は、すっかり高揚をしていた。次は「親子という病」だ。
 そうやって数十分も経っただろうか。立ったままで足が棒になるのも忘れて、僕は親子関係の本を読み漁った。どれも心に刺さる。どの本の親子関係も自分のことかと思うほどだ。
 同じようなことで悩んでいる人がいたんだ。特に最後に手に取った「親子という病」は、専門書ながらわかりやすく、丁寧に親と子の問題について書かれている。
 夢中で読み耽っていた僕は、隣に立って僕を見る人に気が付かないほどだった。
 「山岡」
 声をかけられて僕は、本に突っ込んでいた顔を上げた。
 聞き覚えのある声だ、と思う間もなく、右隣で僕の横顔を直視する人物の名前を思い出した。
 「なにしてんの」
 「佐久川……」
 佐久川は制服を着て、学校の指定鞄を脇に下げている。
 僕の視線に気づいて彼は言った。
 「今日、学校は午前まで。テスト期間なんだよ」
 テキスト探してレジ行こうと思ったら、いたから、と彼は僕を本を持った方の手で指差す。
 「ちょっと、本見てた」
 「なんで学校こないの」
 直球で彼は聞いてきた。内心、僕は舌打ちをする。こいつはこういうやつで、それでいてクラスでは嫌われるどころか人気者の部類だ。僕とは正反対の。本を閉じ、佐久川をみる。
 「つまんないからだよ」
 佐久川は少し驚いたようすを見せる。直球には直球で、だ。
 「学校ってみんなで楽しそうにして、内心では壮絶な見下し合いだろ。社会に出てからでいいよ、そういうの。今から疲弊したくない」
 「あっそ」
 佐久川の反応は簡素なものだった。しかし一瞬、鋭い目でこちらをみすえたことに僕は気がついた。その視線は首から下げたカメラで止まる。
 「なにそれ?趣味?」
 一気に面白そうな瞳をして、カメラに手を伸ばす。僕は半歩後ずさってその手を逃れた。
 「ちょっと、応募に……」
 答えながら、しまった、と同時に思う。
 「応募ってどこに、賞とか?金もらえるの?」
 佐久川は、どうなの、と大声できく。まあ、その、などと口ごもる僕に、すごいじゃん、と肩を叩こうとしてきたので、すかさず腕を避ける。 
 「俺の叔父さん、写真屋してるんだけど、よかったら」
 「いい。そういうの、いらない」
 これ以上関わり合いになりたくない。佐久川のようなやつは笑顔で僕のような人間を罠にかける。そうはいくものか。
 僕は手の本を棚に戻し逃げようとした。
 「『親子という病』」
 佐久川が声をあげた。僕が戻した本のタイトルだ。僕も振り返り、もどした本を見る。
 佐久川がこちらを見ていた。半笑いの表情は不気味だが、その含意は単純だ。
 獲物は逃さない。
 「そういえばさあ、お母さん元気?」
 僕は佐久川を押し除けるようにして、その場を離れた。
 
   3

 本屋を出るとまっしぐらに駅へ走る。
 知れたことだ、と僕は思う。
 父が自分より二十も若い女性と出て行ったこと。それから母が、少しづつ変わっていったこと。
 みんな知っている。狭い街だ。僕と母と関わりのあった人なら、みな知っている。 
 それがどうしたと言うのか。僕には関係ない。
 息を切らしながら、夕暮れの中を僕は走った。
 空では青空と夕焼けの共演がくり広げられていた。不安になるほど鮮やかで深い紺と紅へ、どす黒い雲があおるようにわき立ち、流れていく。
 異変に気づいたのは、道ゆく人の表情からだった。みな上を見上げ、中には立ち止まっている人もいる。つられて歩をゆるめる。通行人の視線の先に、赤いものがあった。ホースや金具があちこちについた真紅の車、あれは消防車だ。よく見ると、車の屋根からは銀色のはしごが伸びていた。はしごの先はそばのビルへと続く。
 七階建てくらいのビルの窓から煙が出ていた。はしごはビルの窓にかけられている。全開になった窓の中に、人がいるのが見える。年配の女性だ。
 はしごの先端に立った消防隊員が手を伸ばし、はしごはビルの壁についた。取り残された女性に腕を伸ばして、隊員は体ごと引っ張り出そうとする。ビルから上がる煙が一層ひどくなる。
 僕を含めた見物人は、その場に釘付けだった。ちらほら、がんばれ、と叫ぶ声も聞こえる。女性ははしごに片足をかけ、乗り移ろうとする。その顔は恐怖に引きつっていた。
 風に煽られ、はしごがゆれる。人々の中から小さく叫び声が漏れた。
 隊員が一気に女性の体を引き寄せ、窓の縁を掴み、風が通り過ぎるのをまつ。
 大柄な防火服のすきまから日に焼けた笑顔がのぞく。大丈夫ですよ、と言うように。背後で夕陽が一際赤く燃えていた。世界中火事になったみたいだ。
 今だ、と気がついたのは、はしごがゆっくりと降り始めた時だった。
 急に重さを持って感じられた胸元のカメラをかまえると、隊員と彼に抱かれる女性を撮った。燃え盛る空もドラマチックにおさまり、照らされた二人の表情も良いはずだ。
 恐怖に怯える避難者を隊員が笑顔で救助している。構図、色彩、インパクト、どれをとっても大賞はかたくない。
 僕は気分が良くなって、帰りの電車に乗った。
 
   4

 予感というものは案外馬鹿にできない。
 例えば父が出て行った日がそうだ。玄関に入ると妙な空気が漂っていた。
 自室にこもって母が低い声で誰かと話すのがきこえた。
 荷物はこっちから送る……お金のことは……そう、これから……。
 耳をそば立てながら、父の部屋に入り、パソコンを確認する。ノートパソコンのあった場所は、そこだけ切り取ったようにビニールマットがきれいに見えた。
 ほこりをかぶった周りの本やペン立て、紙類とは対照的だった。
 ああ、と納得したものだ。やはり、父は行ったのだ。
 肝心なのは、予感だけではどうすることもできないということだ。
 特に相手が、ことをおこそうと確固とした意思を持って企んでいる場合、予感など、真ん中から折れた万年筆にあてがう吸取紙ほども役に立ちはしないのだ。
 
 母がドアを勢いよく開け、そして閉めた。
 部屋を片付ける手を止め、耳を済ませる。足音は僕の部屋の前を通り、遠ざかって台所へ行った。飲み物でもとりにいったのだろう。しばらくすると足音はまた、近づいてきた。ほとんど時間がかからなかったところを見ると、とりにいったのはビールかジュースだけで、料理の皿は手付かずだろう。とりあえず僕の分の夕食はあることになる。
 ため息をつきながら、布団のそばに散らばった実用書や雑誌をまとめ、はがれたカレンダーと傾いた時計を元に戻す。僕の部屋をあらす時、母はいつも布団周りを重点的に狙った。水着を着た女の子でも載った雑誌を期待してのことだろうか。
 心の中で僕は苦笑いをする。おかげで押入れは無事だ。
 母の部屋からはテレビの音が漏れ聞こえていた。あらかた元どおりになった部屋を見まわす。
 見慣れた部屋が、やけによそよそしい。それもそうだ。もうすぐここから出ていくのだ。コンテストの賞金で、僕は救われる。
 本棚の上に置いていたカメラをとって、押入れを開けた。二段構えの押し入れとは違い、余裕をもって立てる。
 中に入ってふすまを締め、天井から吊るした懐中電灯をつける。懐中電灯には赤い暗記シートが貼ってあるが、これは現像する前の印画紙が光で真っ黒にならないためのものだ。赤く照らされた室内には、発色現像液のボトルや印画紙の箱がところせましと並んでいる。写真の機材をのこしていった父は、その使い方は教えてくれなかったから、僕の技術はネットと本屋で仕入れたつぎはぎだ。
 暗記シートが懐中電灯から少しずれて、白い光を投げかけていることに気づき、立ちあがって直した。今日撮った写真の現像は失敗できない。深呼吸して発色現像液の白いボトルを取った。床の上に並んだ、三つのタッパーウェアのうち左端に発色現像液をそそいでいく。この液に浸さない限り印画紙は白いままだ。
 深さ三センチくらいになったところで蓋を閉め、隣に入れる別のボトルを取った。漂白定着液だ。漂白定着液は現像した写真の表面を安定させるのに必要らしい。素人の僕にはその働きがよくわからない。現像さえできればいいようにも思える。現像した写真をスマホに撮ってデータとして楽しめば良い、そう思う。
 しかし今回は話が違う。コンテストにだすのは写真の実物でなければいけないのだから。当然、表面の処理も審査の対象だ。やってやる。僕は漂白定着液を惜しみなくそそいだ。
 最後の容器にそそぐのは水で、水道からペットボトルにくんでおいたものだ。水で印画紙についた発色現像液と漂白定着液を洗い落とす。
 薬剤の準備がすんだ。手にかいた汗をシャツの裾で拭き、カメラの裏蓋を開けて印画紙を取りだす。先のひらたくなった現像用ピンセットで印画紙の端をつまみ、赤いライトに
ゆれる発色現像液の水面に沈めていった。
 しみのような薄い点がはじめに現れる。もやもやした斑点はあざやかな色に変わっていき、ゆっくり濃さをましていく。はじめに像を結んだのは、朱色の夕日だった。つぎに消防隊員ののばした腕と、それにつかまる女性の上半身が浮かび上がる。どちらも太陽に照らされて輝いている。左右反転しつつ姿を表していく写真を見て、僕は小さく手を握りしめた。
 印画紙は、左下の白い空白をのこすのみになっていた。一分ばかり、出来上がった部分を眺めながらまってみる。白い部分は依然としてぽっかりと写真に浮かんでいる。
 気温のせいだ。僕は思う。周囲の温度が低いと、発色現像液の反応が悪くなるとどこかで読んだ。押入れには秋の隙間風も出入りする。
 薬剤を足したり、液の入った容器をそっと揺らしてみたりするが、表面は白いままだった。消防隊員の脇腹あたりにふき出しのようにあいた白は、嫌でも目をひいた。白い部分を切り取ってしまえば夕陽が中央からずれ、バランスが悪くなる。
 しばらく溶液に浸けておこう。
 容器に印画紙の空き箱を被せて光が入らないようにし、押し入れから出た。
 「なにしてるの」
 赤ら顔の母が僕を見下ろしていた。不審そうに押し入れの中を覗き込んでいる。
 「ちょっと、片付け」
 うしろ手に押し入れの戸を閉める。写真のことを知られてはいけない。頭に血液が流れていき、同時に脳からいろいろな物質がでるのを感じる。母は部屋をねっとりと見回した。あらゆるものを見通しそうな、それでいて何も見ていないうつろな視線だ。
 「ちらかってたから、ちょっとさわった」
 わかった、と僕がうけあうと、母は初めて僕がいるのに気がついたように視線を合わせた。
 「ちゃんとしてね」
 「はいはい」
 部屋を出る母を作り笑いで見送り、母がのこしたアルコールの匂いを、窓を開けて追い出した。空はとっくに暗くなっていて、星も一つか二つ見えそうだった。
 今日はだめだな。
 屋根に登ろうか、と考えて、思いとどまる。いろいろなことがあった後では、気持ちが切り替わらないし、そのせいで足を踏み外す。
 一人で夕飯を食べて身支度を整え、布団に入る。最後に少しでも希望を感じたくて、コンテストの応募要項を眺めようとした。しかし四つ折りの紙は、入れたはずのポケットには見つからなかった。
 照明をつけなおし、探す。十分ほど心当たりのある場所にあたっても見つからない。とうとう諦めて布団に入った。
 要項はスマホでも見られるが、わざわざ印刷して持ち歩き、ことあるごとに見直し折り目やしわのついた紙で確認することに意味があった。
 それが母の元から出ていく道への旅券のように、僕には思えたからだった。

   5

 印画紙の左下に開いた空白は、翌日の夕方を過ぎてもそのままだった。何時間かけてあれこれためしても改善は見られない。
 まるで自分にかけたものがあって、それを見つけない限り埋まらないというようだ。この穴さえなければ完璧なのに。押し入れから出てたたんだ布団の端に腰掛け、途方に暮れる。解決策を探してスマホの電源をいれる。
 窓ガラスに何か当たって、僕の注意をひいたのはその時だった。外を見ると、家の前に誰かがいた。道路から高い背を伸ばして、大きな目で窓をのぞこうとしている。スポーツマン風の白い上着からして、これからジョギングに行くのだろうか。
 「どうしたの」
 佐久川がもう一度窓に何か投げようとする前に窓を開け、僕は呼びかけた。
 彼は親指をあげてこっちにこいよ、と合図する。僕は母のいない階下をとおって外に出た。佐久川は塀にもたれてまっていた。
 「これ、落としてた」
 さしだされたのは端々が綻び、すっかり柔らかくなった紙だった。昨日、書店で佐久川と話した時に落としたのだろうか。コンテストの要項を、僕は受けとった。
 おざなりに礼を言いながら、折りたたまれた紙を開く。昨年の大賞が目に飛び込んでくる。ライトアップされたダムは、夕暮れの中で見てもやはり迫力がある。
 急に昨日撮った、消防隊員と女性の写真がお粗末なものに思えてきた。しかもその写真は押し入れの現像液の中で浮かんだまま完成をまっている。あの左下の空白、あれをどうにかしないと。賞金で家をでるという夢は叶わない。
  じゃあ、と背を向けて去ろうとする佐久川を見て僕は昨日の彼の申し出を思い出した。
 「あの……」
 
 スタジオを貸してくれないか、という僕の頼みを、佐久川は二つ返事で承知した。コンテストにだすのだというと、賞金半分くれよ、といってにやっとした。どこまで本気かわからない。
 スタジオは隣町にあるという。僕らは連れ立って、駅へ歩いた。駅に入るところで、同級の男女と鉢合わせた。眼鏡の大西と茶髪の長い髪をなびかせた須賀だ。
 「佐久川じゃん」
 「部活休み?」
 佐久川といつもつるんでいる二人は休日の再会に嬉しそうだ。僕には目もくれずに佐久川を取り巻く。二人して何か面白いことない?といいたげな瞳で佐久川に話しかける。僕は半歩下がり場所を開ける。
 地位に応じた役割とふるまいと、それらへの期待。世間は休日だっていうのに学校の外にクラスの階級を持ち出して世界の常識みたいにふるまっている。大西と須賀だけじゃない。教師も保護者も、箱庭の世界がそのまま社会まで続いていくと思っている。僕は違う。家や学校でみじめな目になっていたとしても、それは今だけの話だ。この街を出て将来、絶対に見返してやる。
 憤りに似た熱を押し殺して僕は三人の交友を眺めていた。電車がホームに入ってきて、佐久川は、あとで電話するわあ、と片手で二人をあしらう。それから僕に、いくぞ、と目で合図した。僕らは改札を抜けて電車に乗り込み、大西と須賀が踏切の向こうで小さくなるのを見ていた。
 
 駅前の商店街をさらに歩くと、写真屋はあった。赤いひさしに堀田写真館、と黄色い文字で刷ってある。
 この店のことは知っていた。しかし商店街を歩く時は風景と一体化して、気がつきもしなかった。この店を佐久川の叔父さんが営んでいるという。ただそこにあるだけで、自分には何の関係のなかったもの、それが急に、自分を助けることになる。佐久川という自分には関係ない、むしろ嫌っていた人間を媒介に、妙な関係が成立している。人生にはこういう運命とか幸運というものがあるのだろうか。
 シャッターの横につくられた関係者用の出入口を、合鍵で開けて佐久川は手招きした。
 「しずかにな」
 「うん」
 レジやショーケースの並ぶ店内は暗く、静まり返っていた。奥にある黄ばんだドアのむこうは一層暗く、自分の足すら見えなかった。
 プラスチックを叩く小さな音とともに赤い照明がつく。赤く染まった景色に、暗室の中に入っていたと気がついた。
 「こんな感じ」
 機材や段ボールを避けて奥に進みながら、佐久川は振り返らずにいった。僕は感嘆のあまり口がきけずにいた。
 佐久川は右最奥の、電気コンロの前で立ち止まった。コンロのうえに置かれた寸胴鍋を拳で叩いてみる。
 「これとかさあ、何に使うんだろ」
 「それは現像液を湯煎するのにつかう」
 僕は半歩踏みだす。
 「隣の流しで、できた写真を洗う。そこにあるのは印画紙を切る裁断機。この大きい顕微鏡みたいなやつは、引き伸ばし機で……」
 佐久川の面白そうな顔に気がつき、僕はよく知らないけど、と近くの椅子を引き寄せる。佐久川も流しの縁に腰掛けて足をぶらぶらさせる。
 「今どの段階?応募するやつ。もう何枚か撮ってある?」
 「ある。でも現像がうまくいかない」
 「もってこいよ。ここで、すぐにできるんじゃないか」
 佐久川は腕を組んでうなずく。胸が感謝の気持ちでいっぱいになる。
 「ありがとう」
  思わず言葉が出ていた、
 「賞金、半分だぞ」
 こちらを指さす彼に、一度に気持ちが重くなる。どうしよう。本当のことを言うべきか。ためらった後、それはできない、と僕は言った。 
 「……家を出ようかなって思ってるから、お金が必要なんだ」
 「ええ、なんだよ」
 頭を落とし両膝を大きく叩く彼に、現像室を貸してもらえないかも、と頭によぎった。それでも後悔はなかった。真実を話しておきたい、と思っていた。
 「ていうか、家でるってどゆこと。賞金で家出するの?」
 まあ、と僕は阿呆のようにうなづいた。ふうん、と佐久川も素直に返す。 
 一瞬の沈黙が過ぎる。そっか、と彼は笑顔をみせた。
 「成功すると思う。お前、なんか違うしさ」
 高揚を抑えて僕は、ありがとう、といった。そして佐久川とあわせた瞳で、彼が僕の真意を受け取ったらしいことは感じられた。
 ここでまってる、と言う佐久川を置いて、僕は写真を撮りに、夜の街へ駆け出した。
 夜風はいつもより冷たかったはずだが、気にならないくらい体が熱かった。
 
   6
 
 家に帰ると、母の部屋からテレビの音は聞こえなかった。
 息を切らせて自分の部屋にはいると、馴染んだ匂いが充満している。
 押し入れが半分開いていた。急いであけると、溶液の匂いが鼻をついた。
 容器が半倒しになり、まざっている。カメラはレンズが割れていた。高いところからおとしたのか。印画紙は、光に当たって真っ黒だ。
 やられた。
 湧き上がった怒りに任せて廊下へ飛びだす。母の部屋は電気がついていなかった。
 何を言ってしまうかわからない。しかし、言ってしまった方がいいことは分かっていた。
 暗闇の中、白いかたまりが浮かび上がっている。布団らしいそのかたまりから、鼻をすする音が聞こえた。 
 母は泣いている。怒りはさめ、どうしようもない侮蔑が湧いてきた。大人のくせに。もっとちゃんとすればよかったじゃないか。
 自分の人生も思い通りにできない。息子の部屋を詮索してうさばらしするしかできない女。息子に死を願われる女。
 それが僕の母なのだ。
 泣き声が大きくなった。僕は気付かれる前に、その場を立ち去った。
 深夜を何時間も過ぎていた。意気消沈し、あふれそうな絶望を抱えて僕は佐久川のまつ写真屋へ向かった。
 なんていったらいいんだろう。佐久川のことだから、母に写真を台無しにされたと話せば、案外分かってくれるかもしれない。ついてないな、なんて笑い飛ばしてくれるかもしれない。
 シャッターの横の小さな戸をくぐりながら、僕は自体が好転することを願った。
 暗室に足を踏み入れる、というところまで来ると、開け放した扉の向こうで笑いが響いた。
 大西と須賀だ。教室でいつもきいている甲高い声だからすぐに気がついた。
 「もう出ろよ。そろそろ山岡、もどってくる」
 佐久川がいらついたように語尾を強める。
 のぞくと、赤い照明の部屋で三人は椅子や裏返した箱らしきものに腰掛けている。
 「いいじゃん、ちょっとくらい」
 須賀が近くの引き延ばし機をいじりながら間延びした声をだす。
 「ちゃんとしろって」
 タイミング見計って警察呼ぶんだからな、と佐久川はつけ加えた。
 一瞬、部屋がしんとする。
 「うまくいくかな」
 大西が眼鏡をおしあげたらしいことが、レンズのきらめきで分かった。
 椅子に座り直したらしく、前かがみになった佐久川の声が低く響いた。
 「そこらじゅう、あいつの指紋だらけだ。学校にも行かずふらふらしてる奴のいうことなんて誰が信じる?」
 転がるように店を出たので、それ以上は聞こえなかった。うしろから呼び止める声が聞こえたような気がして、振り返ることなく走り続けた。
 夢遊病者のように街を離れる僕を、月が見ていた。

   7

 しばらくは電車に乗る気にもなれず、線路沿いに歩いた。
 時間がたっても、母の泣き声や佐久川の笑い声が耳に残って離れない。
 それどころかだんだん大きく響いてくるようだった。見覚えのある家の角に来た。家からはそう遠くない。ふいに、どこかへ行かなければ、という思いがつのった。
 足は、深夜この辺りを歩いているとおりの道をなぞった。ひたすら家々の並ぶ方へいく。そうするうちにまわりより古い、一連の住宅地の始まりについた。いつもの場所だ。手を伸ばして、屋根のはしごにのりうつる。風がふいて、ジャケットのポケットからコンテストの紙が落ちた。
 はしごをのぼりながら、目の端で紙が舞い落ちるのをみとどける。僕にはもう必要がないものだ。永遠に。
 群青の海原のようにすでに低くなっている月を反射して、瓦がきらめいた。いつもなら均衡を崩さないよう慎重に進むところを、僕は走った。誰かが気づいたり、落ちたりしても構わない。最期なのだから。
 一軒目の屋根の縁に来たところで、さっそく足を滑らせた。しりもちをついて、空中に足が投げ出される。死ぬ、ととっさに思った。
 再び歩き出した時、足は震えていた。
 自ら死のうとするのと、屋根で滑って事故死するのはわけ違う。家出の望みを絶たれ、屋根に登って落ちるのはどこか滑稽だ。
 瓦の感触が手に残り、深い痛みがいつまでも残っているので切ったのだと分かった。
 降りるにも降りられず、血のにじむ手をさすりながらとぼとぼと屋根の上をいく。
 いつのまにか涙が出ていた。とめようとしても次から次へとあふれてとまらない。流れる鼻水を袖でふき、歩き続けた。
 ふき荒ぶ寒風の中、最後の屋根へと乗りうつり、立ち止まる。
 飛び降りる勢いはそがれていた。かといってどこに戻っても、行くあてはない。もう一度、気持ちを奮い立たせて屋根の終わりに近づく。下は暗くて見えなかった。高い木もないようで、落ちれば塀や道路にまっさかさまだ。
 一歩踏み出せば、全て終わる。
 死にたいわけではないが、生きていたくない。居場所もなく未来への希望もない。端的には、生きている理由がない。
 死んでも誰も困らないのは確かだが、実行に移すにはあまりにも先が暗過ぎた。
 どれくらい立ち尽くしていたか。数時間のようにも、数十分のようにも思われた。 
 星の光が弱まっていた。ふりかえると、月の輪郭も優しさをおびて空に溶けている。
 いきどまりのむこうにひろがる空へ目を凝らすと、一番遠くが明るくなっている。
 淡い水色がしずかにひろがっていき、途中でクリーム色をふくんだ雲がうすくたなびく。月と星は向こう側で消えかかっているが、周りは濃い青で夜の気配をのこしている。
 じわじわと光の領域はひろがっていき、ついに太陽がひとすじ、姿をあらわした。気品を感じさせる真紅の陽光は、空の頂点に向かって広がっていく。宝石のようにすんだ翠緑色とまざりあい、深みのある紫がうまれた。
 僕は涙をふくのもわすれ、頭上をみていた。はじめはシャッターを切るように覚えておこうとしていたが、最後の方はそれすらしなくなっていた。
 空は一番の被写体なんだ。
 誰かから聞いた言葉だったが、誰だったか。しばらく考えこんで思いだした。
 父さんだ、と。