過ぎた日

「あー、今年も夏らしいことできない!」
 夏休みの空き教室で、夏期講習のプリントを机に放り出して梨沙は自慢の高い鼻から声を出す。
「仕方ないじゃん、受験生なんだから」
 先頭の席に座って太い指で模試の結果を恐る恐る開く私は、それでもどこかで結果が分かっていて、いつものように全然ダメだね、と笑い合えることを期待している。
「げっ、D判定」
「やっぱりか」
 隣に来た梨沙も同じようにDと書かれた模試の結果をこちらに振って、カフェオレにストローを雑に刺して啜る。適当に入った下級生の教室は、吹奏楽部の練習する音や廊下を走る音がいつもの教室とは違って聞こえてきて、それが妙に落ち着かなく、それでいてワクワクさせられた。
「このあと、どうする?」
「帰って勉強。決まってるじゃん。明日も明後日もだよ」
 そう言いながら吐いた梨沙のため息が深刻そうに響いたが、それは黒板の上に貼っている、色褪せた張り紙に向けられたものらしかった。
「勤勉、精勤、努力」
 メガネをあげて張り紙を読み上げると、梨沙はもう一度息を吐く、今度のは少ししんどそうで、そちらの方を見る。
「時代遅れな標語。いかにも、中途半端な進学校って感じしない?」
 うん、と頷いてから何気なく彼女を見ると、明るい色の毛先を指で引っ張っている。
「髪早く伸びないかなー」
「……大丈夫?」
「なにが」
「元気なくない」
 カフェオレを一口飲んで、堰を切ったように彼女は言った。
「さっき言ったことだよ。受験が終わったらまた受験で、疲れるっていうか、課題も特別講習も山盛りで、私立だから土曜も登校しなきゃいけないし、夏くらい思い出に残ることしたいかなって」
「たとえば?」
「海に行ったり花火見に行ったり、あと映画とか買い物とか、イベントだって色々あるから」
 想像しているだけで胸が躍るのか、梨沙の大きな瞳に光が宿り、饒舌になっていくのを見ていると、こちらも相槌だけでは終わらなくなった。
「イベントといえば、美術館とか博物館とか、夏ならではの大きな企画展やってるよね、そういうのも」
「そうそう! そういうミュージアムショップとかで、マニアックなものいっぱい買いたい!」
「本当そうだよね! 私たち最後に遊んだのいつ? 周りも勉強ばっかりで、ちょっとくらい息抜きしたい」
 私たちの話は夏休みにしたいことから受験への不満、周囲への愚痴へととりとめもなく移っていき、終わることを知らなかった。梨沙はカフェオレを飲むことも忘れて、私は頬の筋肉が痛くなるほど表情筋を使って話し、笑い、語り続けた。
 いつの間にか吹奏楽部の練習する音も、運動部の走る時の掛け声も聞こえなくなっていて、先にそれに気がついたのは私の方だった。
「外、暗くない?」
 端にかろうじて黄金を残す空には、金星が輝いていて、その上には当然の顔をして三日月がのぼっていた。え、と梨沙が慌てて腕時計を見る。
「やば、もうこんな時間」
「私も怒られるわ」
 急ながら荷物をまとめて、忘れ物がないか確認することもそこそこに、明かりも落ちてすっかり暗い廊下を小走りで急ぐ。校舎の外は相変わらず蒸し暑さが残っていて、まだまだこれからも暑いぞ、と覚悟させられるほどだ。自転車を押して歩く私に並んで、梨沙は駅までの道のりを歩く。商店街に入る前の踏切で、遮断機が降りて立ち止まったところで、ぽつりと梨沙が言う。
「色々話して、なんかすっきりしたわ」
「そっか。私も」
 安心した中、静かに風が吹いて生ぬるい中に一瞬、涼しさを感じる筋みたいなものが体にあたりセーラー服のスカートがはためく。夕暮れの青黒い空気の中、私たちの前を電車が通り過ぎて、車内の明かりが夕暮れに煌めいて地面に落ちる。遮断機の上がる音を聞きながら、お腹すいたな、と思っていると梨沙がこちらを見て不意に笑う。
「こういう毎日が、案外、青春だったーって思うのかもね」
「そうだね」
 深く考えもせず、でも心では確かにそう思って、返事を向けた梨沙の言葉は正しかったのだと、後々私は思い出す。あの何でもない夏の日が、時折強烈に日常に浮かんでくるのは、若さを発散させることなく過ごしていたからこそ何か沈澱しているものがあると、今になっては思う。