8月32日

 朝、職場でカレンダーをめくると、そこに8月32日があった。
「へえ。こんなところにも、仕事ができない奴がいるんだなあ」
 自分と重ねて思わず親しみが湧き、まじまじと眺めてみる。 
 まさかこの間違いをしたやつも、怒られて落ち込み、2週間の病休明けだったりするのだろうか。
 薄いページを破り捨てようとして思いとどまる。 本当にただの印刷ミスだろうか。
 かすれもせずにはっきりと、黒く大きい数字がこちらを見つめている。  
水曜日や大安という文字まであるところなんか、いやに現実味がある。
「おはようございます」
 係長や同僚たちが総務課に入ってきた。
 ちょっと緊張しておはようございます、と返し、カレンダーに近づいていた顔を離す。
 小学生が考えた冗談みたいだ。始業式なんて来ないで、夏休みがいつまでも続けばいい、と。あるはずのない8月32日か。
 カレンダーは放っておいて、ブラインドを開けに窓の方へ向かう。
 もしかしたら、今日が8月32日でないとは、言い切れないのかもしれない。
 世の中は結構いい加減で、小学生の願いを見逃す大らかさくらい、あるんじゃないか。
 ブラインドを開けると、明るい朝日が差し込んで課内をまっさらなページのように照らした。
 小学生が絵日記の最後に付け足した、8月32日が始まった。 はたしてどんな日になるのだろうか。

「今日は、座ってるだけでいいから。体をならしていくってことで」
「はい。2週間も病休をいただいて、本当にご迷惑おかけしました」
「大丈夫。戻ってきてくれて嬉しいよ」
 半開きの目で課長はそう言うと、決裁を待つ係長の方へ小走りで戻って行った。
 今日は異空間に開いた特別な日だというのに、周りの働きぶりはいつもと変わりない。
 窓辺からは燦々と光が差し込み、入道雲がたち、どこかで子供の声も聞こえる。夏休みの見本みたいだ。奇妙なこの日の発案者も、きっと満喫していることだろう。
「副所長、お弁当どうしますか」
「…… そういった内容のことは、こちらではお答えできかねますので…… 」
「すんませーん、マニフェストとりにきましたー」
 しかし、大人の社会は忙しい。人々が行き交い、電話はほとんどなりっぱなしだ。僕はと言えば、座っているのもお昼も近くなると流石に暇になってきた。
 目立たないように立ち上がり、麦茶をくみに隅の給湯スペースに行く。
 窓の外では自動車整備工場の2階で、三毛猫が寝転んでいる。
 お茶を注いでお菓子置き場から2つばかり見つくろい、席に戻る。
「いいなあ。のんびりできて」
 声の方を見ると、向かいのファイルの影から、こちらを見る係長の鋭い視線と目が合う。電話をとるくらい、するか。読んだフリをしていたファイルを脇へやり、受話器を側に引き寄せる。
 しばらくするとどこかで着信音がなったので、ピックアップを押して受話器をとった。
「はい、マダラ事務所です…… 」
 こちらが話し出す前に、鼻にかかった声が雑音まじりに聞こえた。
「渇水による魚の減り具合について教えてください」
 不意に別の声が割り込んできて驚く。グループ通話になっていたっけ。
 電波が混線して、どこかの通話を拾ってしまったのかもしれない。まずい。
「…… 現在、全体的な魚不足。川上5km は鮎を中心に淡水魚が集まっています」
「ありがとうございます。行ってみます。おかげで晩ご飯に困らないですみそうです」
 切ろうとして、思わず耳をすます。晩ご飯のおかず?川の魚が? どうも変なやりとりだ。
「どういたしまして。その辺りは、最近野犬が増えているので、くれぐれも気をつけ て」
 ふと窓の外を見ると、整備工場の三毛猫が、今度は毛づくろいをしている。ふわふわの片手を上げて顔を撫でる様子は、インカムを調整するオペレーターのようだ。これも延長された夏休みの影響だろうか。
「なにぼーっとしてるの?大丈夫?」
 係長が不審そうにこちらに身を乗り出している。
「あ、いえ。ちょっと」
「どこからの電話」
「もう、切れました」
 受話器からは雑音が流れるだけで、通話は途切れている。係長は不機嫌な顔で盛大にため息をつき、椅子に座り直す。
 そう怒る必要はないじゃないか。8月32日が存在するように、現実にだってアラがあるのだから。 病み上がりの初日だから仕方ない、と再び机に向き直る。
 すると、後ろから聴きなれない声がした。
「あれ?今、1階に居なかった?」
「いえ、ずっとここです」
 声の主は隣の課の偉い人で、声が大きく、普段話すことはない。 片手のペットボトルを振りながら、彼は目を丸くする。
「いや、居たよ。一緒に話してたじゃん。自販機のとこで」
「人違いです」
「家のミョウガが順調に育ってるとかいってさあ。普段話さないから、珍しいなあと 思ったのに」
 おかしいなあ、といいながら自分の課へ戻っていく後ろ姿を見つめて、嫌なものを感じた。時間だけでなく、空間までも歪み始めているようだ。
 もしかすると、この8月32日は、無事に終わらないんじゃないか。不穏な気持ちで手を握りしめ、思わず辺りを見回した。

「ほら、スイカ。大洲で買ってきたんだ。みんなで食べよう」
「冷蔵庫、空きありますかね」
 副所長と課長が話している。 やりすぎたと思ったのか、あれから奇妙な現象はなりを潜め、もうすぐ終業時刻だ。窓の外の猫もどこかに行って、換気のために開けた窓から、少し秋を感じさせる風が 入ってくる。
 小学生が考えた世界でも、季節の移り変わりは避けられないということだろうか。終わりのチャイムまであと何分だろう。
 時間を確認しようと思ったが、デジタルの時計は見過ぎて飽きていた。違う方法で時間を見ようと、コントロールパネルから、アナログ表記の時計を開く。変だ。秒針は左回りに動いていた。
「ほら、スイカ。大洲で買ってきたんだ。みんなで食べよう」
「冷蔵庫、空きありますかね」
 後ろから、副所長と課長の声が再び聞こえてきた。 僕はゾッとした。
 時間を止めるだけでは飽き足らず、遡らせる気だ。
 これはちょっとしゃれにならない。
 8月32日は見逃されたとはいえ、夏休みはいつか終わらなければいけない。
 9月になれば新学期が始まってしまう。夏休み明けの9月は、子どもの自殺率が上がるとニュースで聞いたことがある。夏休みで一息ついた子どもは、過酷な学校生活の再開に絶望するのだとか。子どもは子どもで必死なのだ。 しかし、このままでは時空の狭間にとりのこされてしまう。
 永遠に8月32日のまま、世界全体が神隠しだ。それは困る。時計を戻すために、日付と時刻の調整を呼び出す。
 手動で時刻を入れ、変更ボタンを押すが、全く反応はない。
 世界の存亡がかかっている。僕は歯を食いしばってボタンを何度も押した。
 8月32日の夕暮れを引き留めている子どもに、心の中で呼びかけながら。学校にいかなきゃいけないって、友達とか勉強とか、いろいろ辛いことが多いよな。休めば勉強に遅れるし、何かあっても、誰も助けてくれない。 
 だけど辛いのは、社会に出ても変わらない。 嫌なことばっかりだ。 僕だって仕事をすればミスするし、決して周りとうまくやってない。
 それでも毎日、我慢して働いてる。生きるために。
 人生はそうやって、戦い続けなきゃいけないんだ。だから君も、一緒に頑張らないか?
 変更を押した何度目だったか。時計の針は、一瞬止まる。それから静かに右に動き始めた。
 僕の思いが通じたのだろうか。夕日が燃える空には、黒い雲が集まり、陽が陰り始めていた。
 誰かが惜しみながら、絵日記の最後のページを閉じるように。終業のチャイムとともに、ため息をついて椅子の背にもたれかかる。我ながらよくやった。
 仕事の後はのんびりしなければ。事務室奥、キャビネットの上にある黒いバインダーを手に取る。自分のページをめくり書き込むと、タイミングを見計らって課長の机に近づく。
「今、よろしいですか。ハンコをいただきたいのですが」
 課長は僕のバインダーを一瞥して、諦めたように肩をすくめる。
「いいさ」
 口を突き出して文句を言いたげな係長からも、乱暴な印をもらう。
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
 もう帰るのか、という同僚たちの視線もかまわず、僕は事務所を後にする。人にどう思われようと気にならない。何しろ明日は仕事から逃れられる。
 有給という自由が、大人にはあるのだ。
 夕焼けに染まる道を、虫取り網を持った少年少女が向こうから駆けてきて、すれ違う。 君も、なんとか生きのびろよ。