職人

 オーバーホールに出された高級腕時計を、職人は丁寧に分解していく。
 机の上に敷いた白いフェルト布の上に、百を超える部品が並べられる。
 ピンセットで丁寧に最後の部品を並べ終わったところで、職人は右目の拡大鏡を外しため息をついた。
 歳のせいか長く集中して作業をすることが難しくなっていた。
 それでも明日までには腕時計が完璧に動くように整備しなくてはいけない。
 依頼主は、地元の名士なのだから。

 少し休憩した後に、職人は腕時計に向き直った。
 一つ一つの歯車や部品がすり減っていないか、きちんと噛み合い、正しく動くかを確認する。
 昼に始めた仕事は、すでに深夜に及んでいる。
 カーテンを閉め切った窓の外からは、いつのまにか街の喧騒もとだえていた。
 最後の確認が終わった。あとは百以上の部品を元に戻していくだけだ。
 職人は白髪の混じった眉ごと目をこすり、眠気にあらがった。
 地元の名士に頼まれたから、というだけではなかった。
 職人は仕事を急いでいたが、それは彼の最後の仕事だからだった。
 以前から視界がぼやけ、拡大鏡を使っても手先が見えづらくなっていた。
 名士に腕時計の整備を頼まれた時、職人には仕事をやりおおせる自信がなかった。
 そこをなんとか、と言われて引き受けたものの、これで終わりにしよう、と思っていた。
 完璧な仕事をする自信のない以上、この仕事は続けられない。

 最後の部品をふるえる手先ではめ終え、裏蓋を元に戻す。
 間違いがなければ、秒針は元通り動き出すはずだった。
 秒針は動きだした。
 ただし、左回りに。
 失敗だ。
 職人は絶望した。
 長針と短針は勢いよく反時計回りに動く。
 預かった腕時計を、完全に壊してしまった。
 もっと早く引退するべきだった。どうして良いか見当もつかない。
 頭を抱えているうちに、職人は昔、師匠から聞いた話を思い出した。
 精密に作られた腕時計ほど、気難しく、些細なことでうまく動かなくなる。
 油をさしても歯車を交換しても、正しい動きにならない。そんな時、どうするか。
 叩くのさ。師匠はいった。
 ちゃんとしろってな。これで時計が目を覚ますこともあるって話さ。 
 正確さと繊細さを信条とする職人にとっては信じられない話だった。
 しかし、他に手はない。何より、これが自分の最後の仕事なのだ。
 預かった腕時計は壊しました、廃業ですでは、みじめがすぎる。 

 職人は中くらいの木槌を手にとり、時計を叩いた。
 二本の秒針は動きを止めた。
 こわれただろうか。
 もう一度、時計を叩く。
 職人が見つめる中、まず秒針が、つづけて短針と長針が動きを再開した。
 針の回る方向は右、正しい時計回りだった。
 椅子に倒れるように座り、職人は詰めていた息をはき出した。

 次の朝、腕時計を引き取った名士はその出来に喜んだ。
 「元どおりきちんと動いている。前より針が滑らかに動いているようだ。さすが、繊細な仕事ですね」
 街の時計屋で終わるのはもったいない、首都で貴族を相手に仕事をされては、という名士に職人は首をふって答えた。
 「貴族が身につける時計には、宝石がついていますからね。木槌で叩けばもげてしまいますよ」