好きではないものを好きになろうとしていた。
自分はどんな人間だろうか?
僕は自分を説明するときに、いろんな「自分を構成する要素」を挙げることがある。どんなことをしてきたか、どんなことが苦手か、どんな性格か、どんなことを考えているか、そして、どんなものが好きか。
そしてそれらはいずれ「自分はこういう人間だ」というものに変わっていく。
でもこれが、自分の枷になるとは思ってもいなかった。自分を定義すること、自分はこういう人間なんだと知ることは決して悪いことではないのだが、かといって必ずしも良いことばかりではない。
僕は、自分が好きではないものを好きになろうとしていた。
好きなものと、好きでなければならないもの
僕は小さい頃から、美術系に関しては何かと得意だった。学校での美術の授業では、今まで作ったことがないものでも大体上手く作ることができた。小学生の時には練習で描いた作品が評価されどこかのコンテストで入賞していた。
人からも評価されていたし、自分でも自信になっていた。
でもこれが、僕にとって枷になっていた。
絵を描くことが好きになった僕は、気がつくと「自分は美術が好きな人間なのだ」と思い込むようになっていた。僕は絵を描くことが好きなだけにも関わらず。
美術が得意で美術が好きな自分、それが自分の構成要素、言い換えればアイデンティティであるかのようになっていた。
そしてついには「美術が好きな人間でなければならない」とすら思い込むようになった。自分のアイデンティティを確立させたかったのだろう。美術に興味を持つために、図書館で美術史や絵画の本を借りてみたり、いろんな美術館に行ってみたりしていた。
ただ人よりちょっと美術ができたぐらいにも関わらず、いつの間にか美術が「失ってはいけないアイデンティティ」になっていた。
好きではないことを好きと言う嘘。
しかし、こんな動機で物事がうまくいく訳が無い。
図書館で借りた美術史や絵画の本は、最初の二、三ページだけ読んで返却してしまったし、わざわざ遠出して観に行った美術館も、何がなんだかわからなくて全然楽しめなった(美術に関する知識がないことも原因だが)。
「自分は美術が好きな人間だ」というのは、つまり嘘だったわけである。
かつて、周りの人よりもちょっと得意だったから、評価されていたから。だからそういうものを好きにならなければならないと思っていた。でも、やっぱり好きではなかった。ただ人よりもちょっと得意なだけの人間だった。それだけだった。
この時はまだ、美術の全てを好きになることが大事だと思っていた。
好きには濃淡がある
カレーが好きだけど甘口カレーだけは苦手、という人がいるように、好きなものの中にも差がある。好きという思いが濃い部分と、淡い部分と、その中間の部分。
このように、好きには濃淡があるのだ。
僕はおそらく、美術が全く好きじゃないというわけではないと思う。絵を描くことが好きだったのは事実だし、絵画にも好きな作品はあった。でも、かといって全てが好きだったわけではない。そこにはやはり濃淡があった。
濃淡を、そのまま。
当時の、美術を好きにならなければならないと思い込んでいた僕に何か言えるとするならば「好きにも濃淡があるのだから、全てを好きになる必要はない」ということだ。
絵を描くことが好き、好きな絵画がある。でも好きじゃない絵画もあるし、描こうと思わない絵もある。それで良い。
全てを一色に統一する必要はない。いろんな濃淡があるままで、別に良い。
これに気がついてから、僕はなんとなく気が楽になったような感じがした。完璧主義や白黒思考などと呼ばれているものに翻弄されていた僕が、色んな濃淡を許容できるようになった。
曖昧に曖昧に。好きだけど、好きじゃないところもあるようなものを、そのまんまで。
と、ここまで芸術云々と色々書いてきたわけだが、実は僕はもう絵は描いていない。
長い期間絵を描いてきたのに、それをやめてしまっている。これを勿体無いと思った時もあるが、でも別に良いと思っている。
絵を描くことをまた再開するかもしれないし、もう一生絵は描かないのかもしれない。どっちかわからない。でも、それで良い。こんな曖昧な状態のままで、別に良い。
ここでまた「自分はもう絵は描かない」などと決めてしまっては、芸術の話の二の舞になってしまう。絵を描きたくなった時にまたいろんなものに翻弄されてしまう。
だから、絵を描くことについて今どう思っているかなんて、曖昧なままで良い。曖昧な回答で、別に良い。なぜなら、そこには濃淡があるのだから。
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