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【コラム】電脳少女の夢──「キャラ萌え」についてのおぼえがき

はじめに

 萌え、という言葉。ゼロ年代以降広く人口に膾炙し、オタクという実存の寓意アレゴリーでありつづけてきたこの言葉は、根底的翻訳が不可能なものとして、今日に至るまでとどめ置かれてきた。

 そしてその状況は、「萌え」がかつてのような、特権的位置(少数者としての「オタク」による寡占)を剥奪された後にあっても同様だろう。大文字の「オタク」という存在が究極的にそうであるように、萌えもまた、巨大な謎として生起し、消費され、そして消失していくのだろう、という予感。それは強い実感としてある。「歴史」は、萌えそれ自体とは関係のないところで胎動し、一切を埋没させてゆく。

「論」の方へ、あるいはいつかのボーカロイド

 ところで、「萌え」と聞いて僕がただちに想起するのは、誰か特定のキャラクターではない。一つの曲である。

 それはかつて押井守監督『イノセンス』が身体そのものを描き出そうとしながら、身体「論」映画として成立してしまったのと同じ仕方で、萌え「論」を胚胎するコンテンツとして成立しているかに見える一曲──じん(自然の敵P)《人造エネミー》である。

 同曲はじんが主導していた「カゲロウプロジェクト」(カゲプロ)に連なる一曲であるが、初期の楽曲であるため、他の楽曲が語る世界観との間にはしばしば乖離の見られるものでもあった。

 そこで語られる物語は、カゲプロの体系に向かって開かれていながら、根本的なところで閉じている。独自の文脈、独自の物語の中に、それは成立している。そしてその中枢に君臨するものこそが「電脳少女」である(だからここで語るのは、固有のキャラとしてのエネではない)。

 コードの、二進数の連なりとしてのキャラ存在。絶えずある世界を規定する、システムなるものの先端として振る舞う人型。それは「画面の向こう」なる境域が、どこまでも予測され計画され制御されたものであるということ──そこに現れるものの一切が、どこまでも表象であるということ──をわれわれに感覚させる存在としてある。電脳の存在とは、言わば表象されたキャラというもののむき出しの姿であり、それを取り扱ったコンテンツはただちに「キャラ論」としての、あるいは「萌え論」としての性格をはらむ。

「キャラ萌え」と、結末としてのデリートの位相

 萌えに対して確実に言いうることの一つは、それが表象されたキャラと、それを志向するまなざしとの関係のうちに生起する、ということだ。
 そしてそこで内心に立ち上がっているものとは、あるキャラに対して、根源的な叫びをさらさなければならない・・・・・・・・・・・という強迫観念オブセッションだ、とここではひとまず断言してしまおう。まなざしから声へ。この推移のうちに現代思想の言葉を、タグのように貼り付けるこたも可能かもしれないが、ひとまずそうした手法は脇へとどけておく。

 電脳空間において、オタク(的消費行動を行う消費者)とは「文字」である。ゆえにその「声」は、つねに記述されたものとしてしか存在しえない。

 そしてそうした不可能性によって形作られた人格は、「声の出せなさ」、つまり自室の「外」における疎外感・不能性と取り結ぶことで、否定的なアイデンティティを形成する(恐らくは『ぼざろ』のアクチュアリティもその辺りに存在する)。……そのような解釈は、ゼロ年代から2010年代(テン年代)前半にかけてのオタク存在のリアリティとして、一定程度有効であるように思う。それゆえに、そうした実相を積極的に取り扱ってきた、同人批評における感傷マゾ・青春ヘラという「思想」は、ムーブメントとして広く受容されてきたのではなかったか。

 ところで、そうしたムーブメントの起点に、ドゥニ・ヴィルヌーヴによる『ブレードランナー2049』があるという事実(ペシミ『「エモ」と「アオハル」の20年代』)にはなにか無視できないものがある。FKDの原作、そしてあまりにも有名すぎるリドリー・スコットによる映画版とそれを隔てる要素の最大のものは「電脳少女」であったからだ。

 電脳少女と「僕」の自閉した関係。オタク・カルチャーに通暁しているわけではないはずのヴィルヌーヴが(奇蹟的に)描き出しえたその風景は、しかし、かつて〈セカイ系〉がそうであったのとは決定的に異なるはずだ。

 少なくとも広く知られる〈セカイ系〉該当作品には「他者」が存在した。「きみ」である。それは時に理想化され、時に兵器化され、時に遠景へと流れ去っていく不可能性の象徴のような存在だったが、それでも、そこに存在していることだけは確実だった。

 だが電脳少女はそうではない。それは結局のところ情報産業が生み出した製品にすぎず、人間が備えるある種の頑強さとは無縁のものにすぎない。地面に叩きつけられ、徹底的にひび割れ、再生不能になったお気に入りのおもちゃを前に泣き崩れるいつか・どこかの少年/少女。忘れ去ったはずのそのノスタルジアを、電脳少女は「萌え」とともに突きつける。

 あるいは、萌え自体すでにして、そうしたノスタルジアと密接に連関しているのかもしれない。再生不能になることへのかすかな恐れの中に、その感情は存立している、のかもしれない。

 話を戻そう。電脳少女を成り立たせているのは、ここにおいてプリミティヴな所有欲である、と言うことができる。だからそこにあるのは人-人の関係ではなく、人-モノの関係である。この自閉は、社会の一切がスポイルされ、純化された二者関係のうちにはない。そうではなくて、純化された一者「関係」のうちにあるのだ。

 それは一見、文としては成り立っていないかのようである。しかし「つながりの社会性」が問題になり、個人の経験がすべて共有可能なものに変じたいま・ここにおいて、「関係」が存在しない領域はありえない。この現実のフレームにおいて、「一者関係」という言葉は成り立ってしまう。そして《人造エネミー》は、その端的な表現としてある。

 無論、電脳存在と「僕」がまなざしを交叉キアスムさせることはない。しかしそれは単なる窃視ではありえない。何らかの期待が、そのまなざしにははらまれている。だから《人造エネミー》の語る言葉は、それに対するきわめてナイーヴな応答としてある。まなざしを返す代わりに、言葉が返されるということ。いや、返されているかのように見せかけること。期待(をはらむまなざしという「努力」の運動)と、それに対する反応(絶対的抵抗)の関係は、このようなある意味での詐術によって成り立っている(あるいはキャラ萌えも、また?)。

 そしてその詐術をもたらすのは、他ならぬキャラの「生」が属する相対的に「大きな」秩序である。それはキャラを成り立たせているコードの集積であると言うこともできるし、企業体が管理するプラットフォーム(基体)である、ということもできるだろう。キャラというサービス・・・・。サービスとしての(/に下支えされたものとしての)キャラ。

 一者関係を成り立たせるのは、そのような秩序の十全な機能だ。そうした視点に立ったとき、萌えは予測され、監視され、制御されたものとして立ち現れてくる。

 いまやむき出しになったその事実をいかにして遇するのか。《人造エネミー》は楽曲のなかで、一つの回答を示している。

 電脳少女(≒初音ミク)をデリートすること。それを一つの「決断」(究極的に無根拠であることを織り込み済みで、判断を下すこと)として、一つの「倫理」として示すこと(それは「外に出る」ことを道徳律として立てたとき、言祝がれるものとしての倫理だ)。

 かくて《人造エネミー》のキャラ萌えは一つの終わりを迎える。暗転した画面に向かって吐き捨てられる「喋るだけのおもちゃはもう飽きた」という言葉。それを記述するのが他ならぬ電脳少女自身であるということには注意するべきだろう。この言葉が単なる強がりなのか、本性の露呈なのか、という「事実」を確定させる表現は、詞的世界からは慎重に排されている。本楽曲はどこまでも一人称によって記述されている。「他者の内面」を仮構する群像劇的手法も、超越的な一からすべてをまなざす三人称の記述法も、ここにはない。それは究極的に逃れさっていくものとしてのコンテンツを、探偵的に追跡する批評の営みにも似て……

おわりに

 キャラ萌えのむき出しの姿が電脳少女であり、それをデリートすることが一つの倫理である、という視点。それは暗転によってしか、コンテンツを究極的な終わりに導くことはできない、というニヒリズムを析出するのかもしれない。視聴をやめることによってしか、「萌え」と折り合いをつけられない、ということ。

 無論それは、デリートという行為がそうであるように、やはりどこまでも自閉した、身勝手な思弁でしかないのだろう。それは自室の暗がりにも似て、外部のすべて(≒「萌え」るすべての人々)をアイロニカルに切り捨てる。だから視聴の中断は、さながら「黒洞々たる夜」への逃避のように、どこにも繋がることのない破滅・絶滅を呼び込む結果しか生まないのかもしれない。

 それでも、ある決断が、ある倫理が立ち上がった後で、もう部屋の暗がりの中に留まっていることはできない。

 僕にとって「キャラ萌え」とはそのようなものである。それは存在しない過去のノスタルジアであり、情感たちの廃墟であり、自閉的なまなざしであり、自室の暗がりであり、デリートであり、絶滅であり、そしてそれゆえに希望でもある。

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