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【時評】魚群、ユートピアのパロディ──『きみの色』をめぐって

  バベルの塔。旧約聖書におけるその建造と崩落の伝説は、ひとつの説話として、絶えず西暦に、西暦内の文化史に現れたものであった。

 大破局カタストロフィーにかかわる伝説、こう言ってよければある種の「説話」は多い。大洪水や最後の審判などはその典型である。しかしバベルの塔がそれらと明瞭に異なるのは、そこで崩落するのが人間の築き上げたもの、理性と叡智の象徴であり、都市であるという点である、というのは美術史家の谷川渥の指摘するところだ(『廃墟の美学』)。とはいえ、この説話がわれわれにとって重要なのは、表象ではなくもっぱらその内容──言語が分かたれるという内容──であるという側面を無視するべきではないだろう。大破局が、ただちに分断をもたらす、ということ。そのような説話としてわれわれは「バベルの塔」を読んでしまうことができる。

 国境による分節とは、取りも直さず言語による分節である。「あのひとたち」と「わたしたち」の言葉が違うという意味での分節が、ここにはある。しかしそうしたマクロな視点を持ち出すまでもなく、われわれの言語活動は、生は、分節されているとはいえないか。「あなた」の言葉と「わたし」の言葉が異なるということ。意図を伝達し、内容を伝達し、感情を伝達してもなお、言葉を人に語らせた「なにか」を伝達することはできない。「わたし」が「わたし」を根拠づける、その内在的なはたらきをさらに内在的に根拠づける「なにか」、自己を触発する「なにか」自体を、「あなた」に伝えることはできない。山田尚子監督によるアニメーション映画『きみの色』は、恐らくはそのような前提に立っている。こうした推定から、僕は話を始めたい。言葉がつねに分節され分断されることを織り込み済みで、なおなにがしかを語りたい。


信仰のパロディ

 『きみの色』は主人公の一人「トツ子」が教会の長椅子に座っているシークエンスから開始される。聖母の図像が見下ろす教堂に、祈りの言葉が響く。「変えることのできないもの」という、トツ子が引用する言葉は簡明だが、同時に無視できない質量をたたえて深く映画的時間を打っている。そのような重低音めいた響きからこの映画は始まる。

 実際、本映画にあらわれる信仰の所作にはたしかな質量が乗っている。それは敬虔、という形容に見合うようにして画面へと登場し、さらりと吹き抜けていく。それは鮮烈であると同時に自然だ。トツ子は習慣として十字を切り、ラインホルト・ニーバーを諳んじる。

 しかしそれは、所作・習慣としての信仰であって、生存としての進行ではなかった。彼女は信仰において生きる主体ではない。この分断のうちにあらわれてくるのが、本映画のパロディ性である。

 トツ子の所作は信仰なるもののパロディとしてある。主とわたしの関係、それがもつ敬虔さから逆算して導出された、内的動機の希薄な振る舞い。それこそがトツ子が周囲に見せる動きである。彼女は規律や戒律を破ることに究極的には頓着しない。したがって、信仰と生、といった対立を深刻なものとして捉えることがない。そのフラットさと軽やかさはこの映画の基底音として物語を強力に駆動していく。とはいえ、彼女は熾烈な逸脱者としては描かれていない。

 トツ子にとってのキリスト教はほとんど個人信仰のような情感をたたえてあるが、それは共同性を放棄することを意味しなかった。彼女は聖歌の響きや聖書の朗誦が象るようなミッション・スクールの共同性──信仰生活──に半歩近寄っていながら、同時に半歩遊離している。彼女には〈外〉への予感があり〈内〉への喜びがある。そうした距離のパースペクティヴを形作るものこそが「パロディ」という性格なのである。

 そしてこのパロディ性は、信仰のみならず、本映画を規定する物語構造にもかかわってくる。

 しかしそれを明らかにするまえに、世界観を基礎づけている文脈を確認しておく必要があるだろう。

「魚」とアニメーション

 『きみの色』の舞台となるのは長崎のミッション・スクールである。寮制度があり、主人公の一人「トツ子」をはじめとする多くのキャラクターがそこで生活している。そして学校の徽章に用いられていたのは「魚」の、簡略化された図像であった。

 「魚」はキリスト教において、「父」でありかつ地上の「子」であるキリストの身体をあらわす宗教図像だ。こうした図像の登場自体、宗教的な文脈における固有の意味をはらみうるように思うが、ここではそこに立ち入ることはしない。その代わりに援用するのは、アニメという文脈・・における意味である。

 象徴的な図像を好んで用いたアニメ監督に押井守がいる。押井がしばしば用いたのは超越的なものを指示する「鳥」と、這い回るもの、地上に縛り付けられて生きるものを指示する「犬」が有名だが、「魚」を用いてもいる。

 その最も端的なあらわれが『迷宮物件』であった。『迷宮物件』は空に浮かぶ巨大な飛行機が魚に変じ、墜落するシークエンスから始まる。そうして物語は、一人の少女を中心に構成されたアパートの一室に、人探しを行う探偵が縛り付けられる──終わることのない「捜索」任務の円環に呪縛される──さまを描き出していく。それが「魚」によって象徴されているのだ。押井にとって魚とはそうした円環、呪縛をあらわしたものであった。そしてそのモチーフは、アニメ史における画期たる『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』にもあらわれていた。

 のちにラブコメや日常系を規定することになる80年代のメルクマール『うる星やつら』の劇場版二作目である『ビューティフル・ドリーマー』は、正ヒロインであるラムが作り出した夢の中に──終わらない文化祭前夜に──キャラたちが閉じ込められるという筋の映画である。そのなかに、ラムが水族館の水槽を無機質なまなざしで見つめるカットが登場する。そんな彼女の前に現れるものこそが、夢の世界を形作る妖怪「夢邪気」であった。このシークエンスでは、水槽と夢が並列されている。水槽に幽閉された魚とは、取りも直さず夢に、そして他ならぬアニメという時空間に幽閉されたキャラたちである、というパーセプションが、ここにはある。

 『ビューティフル・ドリーマー』は東浩紀をはじめとする批評家によって、アニメの箱庭性に対する自己言及を行った作品として解されてきた。時間経過の起こらない永遠の楽園ユートピア。日常系の時間。それを描き出した作品として。「魚」が象徴するものとは、そのような時空間だ。

 『きみの色』において、「魚」はそうした、日常系的な感性・世界像への自己言及の役割を果たしている側面がある。キャラたちは水槽の中に、円環の中にある、と。しかしそれは、ただちに、終わりのない時間(=「終わりなき日常」)を言祝ぐ牧歌的なパーセプションに結び付くわけではなかった。──かつて『けいおん』がそうあったように。

 「かきふらい」の原作を元にした、山田尚子によるテレビシリーズ『けいおん』(『けいおん!』・『けいおん!!』)は、幾人かの識者が指摘するように「終わりなき日常」を前提としながら、それを最後には破れさせる作品としてあった。決定的な終わりを、日常系において演出した作品として『けいおん』はあり、その点において同作は『ビューティフル・ドリーマー』から続く一つの系譜を超克していた。

 『けいおん』が終わりを見つめる物語であったように、『きみの色』もまた、終わりに向かって進み続ける一つの物語として構成されていた。この類似は、恐らくは偶然ではない。『きみの色』は、恐らく自覚的に、『けいおん』のパロディとして描き出されていたからだ(*:付言すれば、本作は新海誠にとっての『君の名は。』がそうであったように、ある種の「ベスト盤」として見出すことのできるものでもあった。『けいおん』については後述するが、その他にも、糸が絡まり合うような演出は『リズと青い鳥』や『平家物語』に見られたものであった)。

 トツ子には少なくない部分で、天然で抜けたところのある平沢唯(『けいおん』の主人公だ)のイメージが重ね合わされている。所作やリアクションはもちろんのこと、物語の要所でそうした類似は描き出されていた。

 例えば序盤、バンド:しろねこ堂を結成するシークエンスで、トツ子は自分がキーボード弾きであり、もう一人の主人公である「きみ」とバンドを組もうとしていると、ルイに対して嘘をつく。これは『けいおん』の冒頭、ギターを弾けると偽って軽音部に入部した唯と符合する。天性の(楽器の)才能で嘘をリカバリーするところまで含めて、このイメージの類似は強固に構成されている。

 それはまた、シスター日吉子の設定にも表れていた。トツ子が見つめていた、ベッドに刻まれていたバンドロゴ「God Almighty」は、かつてシスターが結成していたバンドのものだった。こうしたミクロな歴史の断片が、ひとつの箱庭にたしかな位置を占めているという構図のうちに、『けいおん』における「DEATH DEVIL」の影を読み取ることはそう難しいことではない。とはいえ、これらパロディがいかなる意味を持ちうるか、ということについては、この場で答えを出すことは恐らくできないだろう。

楽園の色パロディアス・ユートピア

 『きみの色』をしるしづけているのはトツ子の感じる色、水彩のような光の連なりである。黄昏のような淡い色彩に覆われた画面に対して、そうした水彩の質感は異化効果として機能していたが、無論、この仕掛けは画面のみにかかわるものではなかった。

 トツ子は、眼が映す色とは別に色を感じる。テルミンの奏者が音を掴む(と解釈される)ように、本来視覚に依拠する情報・情感であるはずの色は、ここにおいて世界内に根拠を持っていない。彼女の色を根拠づけるのは他ならぬ彼女自身だ。

 ここではたと疑問が生まれてくる。しかし、それは本当に「色」であったのだろうか。否、彼女の実感に最も符合するのが「色」という語である以上、それは「色」以上でも以下でもないものとしてあると解するほかはない。しかし「色」とは情報・情感である以前に言葉である。青や緑や白といった、色を指示するものはすべて言葉、突き詰めれば記号であり、究極的には「色」そのものではない。無論、そうした色覚はある程度客観的な基準によって規定されているが、とはいえ、彼女の感じているものはそうした客観性には回収されえない。繰り返せば、彼女のオルタナティヴな色覚を根拠づけているのは彼女のみなのだから。言葉は、記号は、時に内的な情感性に対して無力である。バベルの塔の崩落以後、塔の再建がかなわなかったことが象徴するように。

 言葉が内的な情感性から逃れ去っていくのに似て、表現もまた、ある意味において対象そのものから逃れ去っていく。表現とは素朴に解すれば、技術や素材を接ぎ合わせることで、ある観念を翻訳することであるが、観念と技巧が別のものである以上、情感と表現の間には隔たりが生まれざるをえない。

 トツ子の色は作中で絵によって表現された。ここで注目するべきなのは、アニメというメディアが「トツ子の色」を表現するに際して取り入れた方法論が、トツ子自身の絵(の表象)そのものであるという点である。

 トツ子の表現が時として理解されない「誤訳」としてあらわれたように、このアニメが映し出す色もまた、ある種の誤訳であったのではないか。水彩の表現とは、トツ子の色を真摯にくみ取りながら、究極的にはそこから離れた、ある種の誤訳であったのではないか。それに関しては議論の余地があるだろう。しかしただちに確認されなければならないことは、そうした誤訳がただちに、アニメなるものの敗北を示すものではないということである。

 表現そのものの制約を飛び越える手段として、この映画は「音楽」を用いる。言葉にならない想いを、情感を伝達する手段として、音楽はあった。

 音楽は色彩を横溢させることなく、ただ音として映画の時空間を満たしていった。ハプニングも「すべてが幻想に変じる一瞬」の感覚、ライブ的な感覚の光彩を映像的に仮構することもなく、ただそうあるようにして。

 だからライブシーン、2曲目、《あるく》のラスト、引き裂くようなフィードバック・ハウリングが劇場を満たしたとき、僕はすべてが許されたような気持になった。それは遠い過去の音の残響、模倣パロディであるにもかかわらず、否、であるがゆえに、終わりの風景としての楽園ユートピアを肯定し、言祝ぐことができたのだ。

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