Folklore:Eastern Dream──《東方project》批評のためのおぼえがき


はじめに

 東方project。東方。そう呼ばれるコンテンツが存在する。

 フリーのゲームクリエイター「ZUN」氏により2002年から(前身であるところの「旧作」シリーズも含めるなら1996年から)開始されたこのプロジェクトは、単なる一同人ゲームの枠組みを遥か飛び越え、クリエイターとプレイヤー、アマチュアとプロの境界を絶えず攪乱しながら、多種多様な欲望・想像力を取り込みながら肥大した。

 東方projectの最大の特徴(として広く理解されているもの)として、公式(サークル:上海アリス幻樂団)が二次創作に対してガイドラインを設けているという点が挙げられる。無論、それは「制限」ではなく「調整」を目的としたものであり、純粋に商業的な作品──属人的な性質の薄い作品──のそれがもつ権利とは明確に隔たっている。

 東方projectにおけるガイドラインは、おもにゼロ年代の後半から、アマチュアによる二次創作市場を活気づかせた。そしてそれは、奇しくもクリプトン・フューチャー・メディアが、ボーカロイド技術のパッケージであるところの初音ミクをはじめとするキャラクター・コンテツに設けたそれと類似する。そして、それが受容されエンコードされ拡散されたプラットフォームが、他ならぬニコニコ動画である──宇野の図式に倣うなら、それはまた、国内の、ガラパゴス的な発展を遂げた特異なプラットフォームでもある──ことも含め、「ボーカロイド」と「東方project」はともに、同じ時代に、同じ空間に生きたコンテンツであったと言うことができるだろう。そして彼女たちは、まだ生き続けている。

 2024年現在、東方projectは幾度となく衰退論を唱えられつつも、今なお継続している。二次創作市場は一定の規模を保ち続け、「原作」であるところのシューティング・ゲームシリーズは今日に至るまでリリースされ続けている。

 ひるがえってそうしたコンテンツを批評的に、つまりアカデミズムの言葉で、思弁でもって捉えようとする動きは弱いように思う。

 ゼロ年代以降のインターネット・カルチャーを検討するうえで、商業(オタク)批評において、ボーカロイドと東方projectはともに代表的なコンテンツとして、インターネット・カルチャーの特質の胚胎したコンテンツとして言及されてきた。

 例えば前島賢による『セカイ系とは何か』(星海社文庫、2014/初出:SBクリエイティブ、2010)と宇野常寛による『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎、2011)はともに、「コミュニケーション」を手掛かりに、ある種のムーブメントとしての両コンテンツへ言及した。前者はそれを「物語回帰」的なものとして見出し(注1)、後者は新たな時代──「拡張現実の時代」の、新しい想像力のかたちとして見出した。

 しかしそれらは、あくまでもそれぞれの著書が提示する図式に服属するコンテンツとして持ち出されたにすぎなかった。それ自体にはそれなりに価値があるのだろうが、コンテンツそれ自体に対する検討・批評がなければ、コンテンツが胚胎する可能性は、的確なかたちで見出されえないはずである。

 コンテンツそれ自体のための批評。必要なのはそれだ。ともに同じカルチャーに属するこの二つのコンテンツには、そうした批評の回路が求められているように、僕には見える。

 そしてそこにおいて、先述した東方projectとボーカロイド・コンテンツの類似性・対称性は崩壊している。

 ボーカロイド・コンテンツはすでに、音楽批評やメディア論の体系と結びつくことでその批評的足場を確立しているかにみえる。商業の世界においては柴那典による『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』(太田出版、2014)や鮎川ぱてによる『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』(文藝春秋、2022)などの批評が存在しており、また同人批評においてはhighland(@highland_sh)氏による総合誌「ボーカロイドの現在地」なども刊行されている。

 ひるがえって「東方」は、これはほとんど手付かずの領域であり、批評的足場が確立されているとは言いがたい側面がある。

 前置きが長くなってしまったが、本稿ではさしあたり、そうした批評的足場の確立ののちに、その上に建てることが可能(であると思われる)批評の論点をいくつか挙げてみたいと思う。

論点1:ゲームデザイン

 東方projectについての批評的足場の不在。根拠の希薄な私見ではあるが、それは(デジタル)ゲーム批評それ自体の足場が、いまだ十全なかたちで確立され、それについての思弁が拡散されていないことと相関しているのではないだろうか。

 かつて東浩紀氏は『動物化するポストモダン』および続編である『ゲーム的リアリズムの誕生』で美少女ゲームに対してほとんど特権的とも言える位置を与えていたが、伊藤計劃がのちに批判したように、そこで見出されていたのはあくまでも「物語」の入れ物としてのゲームであった(注2)。

たとえば、あくまでたとえばですけど、ゲームのインターフェイスの変遷や、ゲームという言葉どおりそこに内在するルールをプレイヤーがいかに受容するか、などといった方向を、(平凡ですが、まあ例ということで)生権力の話や環境管理型権力(これなんてまさにゲームデザインの思考ですからね)の話などに絡めて論を展開するとか、そういう可能性はいくらでもあったように思うわけです。なにせコンシューマーゲームでは「システム」をひとつひとつ設計し、世界(物語空間ではない)を一回一回デザインすることが多かったわけですから。ゲームの中で物語性に絡まない部分であっても、いくらでも批評的な話はできたはず(じゃあお前やれよ)。

あのとき語られたのはゲームじゃなく、あくまでエロゲーだったんだなあ。
だって、インタラクティビティが重要だったんなら、お話なくてもいいじゃん。

なぜ「システム」という実に魅力的なものが剥き出しになったコンシューマーゲームが、(いい悪いレベルに終始するだけで)あまり語られることがなかったのか。いや、あの時代エロゲーがらみの話にまったく絡めなかった(マカーだったので)人間の僻みかもしれないですが、もうちょっとゲームに関する思想的展開は豊かになってもよかったんじゃないかなあ、別の可能性があったんじゃないかなあ、としみじみ思い返す2008年の春でした。

ゲームと思想 - 伊藤計劃:第弐位相 (hatenadiary.org)

 近年では吉田寛氏による『デジタルゲーム研究』や、あとはトーマス・ラマール『アニメ・エコロジー』におけるメディア論など、ゲームの特質や、それが背景にもつ特有の文脈に対する研究も登場してきている。しかし、それはいまだ広く普及してはいないように感じる。

 しかし東方projectの批評を、コンテンツに内在する力を十全に活かすかたちで実現するならば、そうした研究の視座、あるいは文脈・体系と結びつくことは避けられないように思う。

 例えばいくつかの作品を除いて、東方projectの作品はシューティング・ゲームとして作られている。これは『ゼビウス』などをはじめとする、今日においてはレトロゲームとしてノスタルジーの対象とされているゲームの表現形式であるが、東方projectの「原作」ゲームにおける表現とは、決して単なるノスタルジーに踏みとどまるものではない。

 東方projectにおけるシューティング・ゲーム的状況は「弾幕ごっこ」と呼ばれるゆるやかなルールによって成り立つものだが、ここにおいてその勝敗を決するのは「美しさ」であるとされる。

 弾幕──キャラクターが放った攻撃の作り出す幾何学的配置──には、ゲーム上の「障害」以上の意味が付加されている。しかしそれを、ただちにプレイヤーが「直感」することはない。プレイヤーにとって弾幕はあくまでも障害であり、直感することができるのはプレイアブルキャラクターの「当たり判定」に迫ってくる数発の弾と、切迫した思考の中でかすかに見ることのできる、曖昧な、画面の全体性のみなのだ。

 しかしそれは、あくまで「ノーマルシューター」──一般的なプレイヤーに限った話であるかもしれない。最高難易度「ルナティック(狂気)」を難なく突破することのできるプレイヤーは、直截的に画面の全体性を認識し、そこに審美を持ち込むことができるのかもしれない。

 ここにおいて「ゲーム」を「クリア」するということ、極めるということの意味は転倒する。それはすべてのステージを踏破することでも、敵を爆発四散(「ピチューン」)させることでもない。「弾幕ごっこ」を規定する認識を獲得し、正しく理解すること。舞台となる「幻想郷」というオリエントの文脈と同化する(=幻想入り)すること。それこそが、東方projectのゲームを「クリア」するということの意味なのではないか。

 それはあるいは、難易度の名が示すように「狂気」に近づくことなのかもしれないし、また、作中世界においては自明のものとされている人間/妖怪(なるもの)の区分のうち後者へと近づいていくことを意味しているのかもしれない。

 そのような論点から、東方project(とりわけ、その原作ゲーム)を考えることはできないだろうか。

論点2:世界設計・物語の記述形式

(準備中)

論点3:二次創作それ自体──メタ・フィクションとしてのありかたと潜在力

(準備中)

注釈

注1:東方projectにおいては二次創作に対するコンテンツそれ自体の依存度の高さを(肯定・否定のニュアンスを拮抗させるかたちで)指摘したうえで、類似コンテンツとして『機動戦士ガンダム』ファンダムの活動を挙げた。一方ボーカロイド・コンテンツにおいてはいわゆる「ボカロ小説」や、そうした市場から出現した「カゲロウプロジェクト」の人気を挙げている。

注2:なお伊藤計劃自身は、粗削りなかたちではあるが、『メタルギア・ソリッド』のゲームデザインに着目した批評『制御された現実とは何か』を記している)。

 

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