【エッセー】コピーのための批評──戦略としての「存在論的、広告的」
東浩紀『郵便的不安たちβ』(河出文庫)を読んでいた。これは1991年の『ソルジェニーツィン試論』から始まり、1998年の『存在論的、郵便的』(通称「郵便本」)を経由し、21世紀初頭に至るまでのさまざまな仕事を集成したもので、『動物化するポストモダン』もとい波状言論・網状言論的なものが生まれるまでの経過が断片的に把握できる一冊となっていたが、その中でもとりわけ目を引いたのが「存在論的、広告的」と題された連載コラムの段だった。
同コラムは90年代の文化状況を概観することから始まる。80年代における人文学知の拡散──ニューアカ・ブームの宴が終わったのちの、10年期の風景。それは個人の生を意味づけ、世界の全体性を担保する「大きな物語」が失効したのちの風景でもあり、そこにあって個人は徹底した分断を被る。小さい共同性の乱立が世界の全体性の空白を埋め、その結果として個々人が横に接続するための回路が寸断されたような状況。東のこうした整理は日本における「ポストモダン」の説明としては一般的であり(当時からそうだったのかはわからないが)、とりたてて特筆するべきものではないのかもしれない。実際、こうした視点は『郵便的不安たちβ』の前半に配されているエッセーや講演録において、より精細に語られたことでもある(*1)。
しかしこのコラムの行き着く先がオタク論であることを鑑みると、こうした整理は固有の意味をたたえてこちらへと迫ってくるかに見える。ポストモダンとオタク、という整理は、一般に東に固有のものとして理解されている。郵便本以降では最も有名な一冊であり、かつ、オタク論の金字塔としていまなお著者の代表作として知られる『動物化するポストモダン』の革新性は、まずもって、現代思想のタームやフレームをオタクの分析に持ち込んだ点にあったはずだ。
言うまでもなく、オタクの実存はポストモダンのフレームとしての消費社会に、市場経済に規定されている。無論、これを「言うまでもなく」という前置きの下で語れること自体、東をはじめとする論客の活動あってこそのことだが、ともあれ、こうした前提を立てるところからオタク論は始まる。無数に存在する商品を、一定の偏愛のもとで消費すること。オタクはそうして自己定位する。オタクは消費社会の鬼子だ。ゆえにその実存について考えることは、ただちに、消費社会について考えることを意味する。
消費社会に固有のオリジナル/コピーという構造の裂開(絶えざるコピーの連続がオリジナルを見失わせる)。目の前にある物がつねに交換可能な消費財にすぎないということ。ともすれば文化的頽廃と見做されがちなそうした条件をしかし「存在論的、広告的」は肯定する。
同コラムはオタク文化における最大の消費財である「キャラクター」が消費されるメカニズムを「複製可能なものを複製不可能にすること、コピーをコピーのままでオリジナルにすること」であると置く。育成ゲームを例に挙げながら、そのプロセスを構成するはたらきの一つとして東が注目したのが「喪失感」だった。
育成ゲームにおいて、同じ意匠として、あらゆる消費者のもとに平等に立ち会われるはずのキャラに名を与え、しかるのちにそれを喪失するという経験は、それ自体複製可能なはずの商品を消費するという行為を、複製不可能な消費経験へと変える。「この」経験、「この喪失」の経験を、いま・ここのプレイヤー以外の消費者が購入することはできない。消費社会的な交換可能性の回路が、ここでは寸断されている。そしてまさにその寸断において、オタクの、消費社会における個人の、生をかけるに足る経験は立ち現れてくるのだ。
消費社会に特有のパーソナリティとその生の関係。このトピックに挑みかかった思想家としては、ほかに大塚英志の名前を挙げることができるだろう。
大塚による『物語消費論』は80年代日本の原風景と強固に結びついた消費社会論として成立していた。都市民俗学の知見に頼りながら、しかし根本的なところで、生ける諸個人の生それ自体を拾い上げるようなソリッドなテクストの束。『物語消費論』はそのように評しうる一冊であったし、そうした可能性に佇んでいるがゆえに、『動物化するポストモダン』は先行者として同書を見出したのだ。
『物語消費論』の白眉はそこに制作者の視点が介在しているところにあるだろう。究極的にはシステム──それは消費行動を下支えする情感を構成要素とするものでもある──を問題とした『動物化するポストモダン』とは異なり、『物語消費論』は、なにがしかを制作するということ、なにがしかが制作されるという状況そのものに直截的に触れていた。それは「個」から論理構造を立ち上げるという姿勢である。無論、それに対置されうる語は「群」である。「個」としての『物語消費論』と「群」としての『動物化するポストモダン』。そして「存在論的、広告的」は、僕の考えでは、前者に区分されうる。
やや話をずらせば、この差異は、東が依拠したように「大きな物語」の失効によって生まれたものであると解することもできるだろう。しかし、ここではそうした見方はとらない。「なぜ」と問うことはしない。行いたいのは、『物語消費論』そして「存在論的、広告的」がまとっていた、21世紀に持ち越されることのなかった可能性である。そしてその名前の一部こそが「消費社会」と「オタク」なのである。
話を元の道に戻したい。大塚は「制作」に着目しながら、それがひとつのシステムにおいて進行する状況を描き出した。『キャプテン翼』の同人誌が絶えざる参照とパロディによって成立していることに着目しながら、キャラ・イメージを物語から独立して駆動させるありかたを抜き出すその手管は、一見すると、同書に対立するものとして先に持ち出した『動物化するポストモダン』と同型のもののようだが(そして実際、そのように見なされているはずだが)、内実は異なっていたのではなかったか。記述のレベルにおいて、『物語消費論』は「個」がシステムに触れる瞬間を、あるいはその先に連なるプロセスを取り扱っている。それは広範な理論としての立場を堅持し、「群」から「個」をまなざし、しかるのちにシステムを幻視する『動物化するポストモダン』とは異なっているといえるのではないか。
コピーとオリジナルの差異が消失した地平で、徹底化された消費社会の地平で、消費財とともに生きるということ。ここまでに取り扱ってきた著作はどれも、そうした問題系のうちにあった。しか世紀の壁によって象徴的に分断された、それら著作の抱え込んだ差異は、それが属する時代において重要であるのと同じ意味で、いま・ここにおいても重要なものであるはずだ。
すべてはコピーのようなもので、オリジナルはどこにもない、という発想。しかしそれがひとたび前提となると、問題の輪郭はむしろそれが葬り去ったはずの「オリジナル」信仰へと回帰したのではなかったか。
すべてがコピーだ、という主張が有効であったうちは、オリジナルの喪失をたしかなものとして感じることができた。しかしいまやオリジナルは喪失するものではない。それは遠い昔に消失して、消失したことさえ忘れ去られたようなものである。コピーだけの地平とは、すなわちすべてがオリジナルであるかのように見せかける地平ということでもある。
かくして、どこかに決定的なオリジナルがあるかもしれない、という、予感とも妄執ともつかないあいまいで切実な希望が生まれることになる。それがはらみもつリアリティは、消費社会がめっきり名指されなくなったこの10年ほどのあいだに肥大した。同人誌的なもの、二次創作的なものが単にサブカルチャーのサブカルチャーであることをやめ、一次創作とのあいだに連関をもつ(二次創作家が一次創作家に転身する、ということ)ような状況が珍しくなくなれば、必然、少なくない制作者がワナビー的な感性を内面化する。いま・ここの実制作への享楽は鳴りを潜め、未来の、輝ける実制作のための準備段階としてすべてが見なされ得るようになる。
それはおそらく、「制作」を未完のままにとどめさせてしまう。それは欠如の感覚から発した渇望によって制作を象るということで、享楽は遠い未来にしか存在しえないものとなる。ワナビは「雌伏」であり、ただデビューだけが享楽・至福へと至る階梯となる。
批評においてもまた、このような感覚は容易に内面化されうる。批評のワナビ、とりわけ東浩紀や宇野常寛に象徴されるようなサブカルチャーの批評への憧憬を抱くワナビは、オタク的な消費行動を「欠如の感覚から発した渇望」へと取り込む。それは作品の見方を変えることが世界の見方を変えることであると強固に確信するための手続きであり、ある意味では希望でもありうるのだろうが、とはいえいくつかの事件を持ち出すまでもなく、絶えざる渇望、ワナビ的な渇望は、分かちがたく危険性をはらんでいる。
重要なのは、恐らく、享楽である。渇望による破滅を免れるためには、どこかで享楽へと立ち戻る必要がある。しかしそれは、ある諦念、ある断念によっては恐らくなしえない。決断か断念か、という二項対立そのものを問い直す必要がある。
そのうえで、「個」の「生」に射程を絞っていた『物語消費論』およびそれと同型の「存在論的、広告的」のモデルは有効にはたらきうるだろう。交換可能なものを、固有の経験において交換不可能なものにするということ。この個的な切実さによって、ひとつの立場として自己を確立し、享楽を享楽として取り戻すことが必要だ。そしてそこに立ってはじめて、個人はワナビ的な生から解放される。否、正確には、半歩だけワナビ的な生から踏み出すことができる。
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