【時評】白煙の見せるまぼろしの彼方から──『アリスとテレスのまぼろし工場』について
・はじめに──岡田麿里との距離について
岡田麿里監督作品、『アリスとテレスのまぼろし工場』を公開初日に観てきた。平日の微妙な時間ということもあるのだろうか、人はまばらだったが、高校生が目立っていた印象がある。
岡田麿里の作品に、僕は片手の指で数えられるほどしか触れていない。『あの花』、『空青』、参加作品を含めても『DARKER THAN BLACK─双星の双子─』くらいであり、作家としての彼女のことはほとんど知らないに等しい。
けれど本作を最初に観たとき、僕はとても「岡田麿里らしい」作品だと感じた。先に挙げた作品たちのエッセンス、こう言って良ければ作家性のようなものが横溢した作品だと。
本作はかなり荒削りであったように思う。中盤~終盤にかけてはかなりライブ感が強く、世界観や自意識への言及、というより補足も、かなり抑えめになっている、と。だが僕は同時に、そうした、端正さの排除は、むしろこの作品の核にある鋭さを、その圧倒的な質感を際立たせているようにも感じたのだ。
本作は、よき映画が常にそうであるように、複数の論点、複数の問題系を併存させて取り扱っている。そしてそれを、一つの論考でつまびらかにすることは極めて困難だ。
だからさしあたり、ここでは「虚構(≒コンテンツ論)」とキャラクター身体論の二つから、この作品の輪郭を明らかにしていきたいと思う。
・よみがえる『ビューティフル・ドリーマー』と虚構性の告発について
ファーストカット。梟を模した時計が眼球を左右に揺らす。それを映しながらラジオの音声が流れる中で物語は展開していく。この梟は、後から思い返してみればたぶん睡眠時に発生する高速眼球運動、つまりレム睡眠のメタファーであり、この物語そのものが虚構であることを示しているように思う。
虚構の虚構性の告発。そうした自己言及的なカットはこの映画の中にしばしば登場した。例えばベビーカーがある。生まれることのない、胎児の状態でこの世に留まることを宿命づけられた子どものために用意されたそのベビーカーは、しかるべき肉体が不在のまま時が止まり続けている。だが中盤、ベビーカーを押す母親が映し出されたとき、そこからは「不在」が丁寧に掩蔽されていた。上からのレイアウトを採用しなければ不在という事実は確定しない。それは虚構の手管、映画という時空間にのみ可能な表象だが、不在という事実、タネが分かったうえでそれを演出することはある種の「告発」の色彩を帯びる。虚構の、虚構性の告発の色彩を。
虚構の虚構性、というテーマを追っていた作家に押井守がいる。初期、とりわけ20世紀の彼は、日常、戦争、電脳──あらゆる状況でそれが虚構であることを告発した。その作劇はしばしばコンテンツ論への揺さぶりをかけ、コンテンツのファンの対立を生んだが──ここではそうした「彼の作品」であるところの『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(以下、『BD』)が参照されているように思う(原作者高橋留美子はこの挑戦的な作品を「あれは押井さんの作品です」と断じた)。
『BD』の肝は、繰り返す日常を描く日常ラブコメの構造そのものの極端な戯画化と、それと鏡映しになった水槽的な世界設計にある。前者はこの作品でも自覚的に描き出されているコンテンツ論へのアプローチ、つまり「変化しない」キャラクター存在、および身体に対するある種の皮肉だ。そして後者もまたそう見える。
この作品の舞台となる「見伏市」は閉じた箱庭である。上遠野浩平や奈須きのこが取り扱ったようなある種匿名的な地方都市ではなく、純粋な田舎としての閉塞。そしてそれは、ここにおいてはただの閉塞ではなかった。
脚本・監督を務めた岡田麿里による小説版はこうした記述で始まる。先述した眼球運動のカット、ラジオのインサートからではなく、見伏への言及から。それは取りも直さず、「箱庭」のディティールへの言及でもある。
本作の箱庭は、演出されうる箱庭だった。
田舎、と人が言うとき、あるいは創作されるとき、そのディティールは大抵の場合後景でしかない。それは演出されうる時空間ではない。自意識の揺らぎを表現するための「舞台」。それこそが、この種の閉塞した田舎空間に書き込まれた意味だった。だがこの作品は違う。その箱庭は自己目的化しており、そこにもはや「都会」の影はない。それは脱出すべき「外側」が、丹念に排除された箱庭なのだ。そういう意味で、これはディストピアとしても読むことができる。
・キャラクター身体とレイヤリングされた虚構について
そうした世界にあっては、人間は背景にならざるをえない。あるいは、背景として本来感受されるはずの光景と同列のものに。だが、箱庭とは虚構でもある。そして虚構としての世界に人物の存在感が拮抗するとき、人物はキャラクターとなり、その身体はキャラクター化された、キャラクターを下支えするものとして戯画化され描かれる。
キャラクター身体、という問題系。それは戦後の漫画作品、とりわけ手塚治虫作品の構造を論じた大塚英志の著作の中に見ることができる。
無論、これは「戦後」と、自閉する漫画表現についての言明、ごく限定された範囲に紡ぎ出された文脈であるため、この問題系がどの程度敷衍可能なものであるか、ということについては十分に議論の余地がある。しかしそれはここでは一旦脇に置いておきたいと思う。
この作品の身体は、そうした問題を取り込んでいるといえる。どこか浮薄なものとして感じられる痛みに、傷つかない身体。寒さは必要以上に感じず、冬を象徴しまた規定する白い息も、そう演出されなければ起こらない。それは抽象度の高いアニメーションの限界だ。そしてそうした限界性を、この作品は自覚的に描き出す。
閉ざされた見伏は「現実」を素材にして作り出された虚構だった。だがその「現実」とは──つまり虚構における現実なのだ。
それは匂いがあり、痛みがある現実ではあるが、決して「我々の」現実ではない。それは「線」の折り重なったデジタル情報の塊であり、物理的実体そのものではない。だからここにあるのは「現実/虚構」という対立関係ではなく「虚構/虚構'」という、どこまでも続く、レイヤリングされた世界の形だ。
ある虚構の上部に、その虚構よりも抽象度が低く、ままならない原理に貫かれた上位虚構が存在すること。けれどそれもまた虚構にすぎないこと。その無限性の中で、一つの世界が終わりゆくこと。それは端的に言って絶望だ。終盤のシークエンスの、その投げやりな希望から放たれるある種の無神経さは、そうした絶望に端を発している。
夢の中に希望はない。それは、本編中で参照されるアリストテレスの箴言から演繹されうる逆接だ(「希望とは、目覚めている者の見る夢である」)。すべては終わりゆく。本作は中盤~終盤にかけてそれを自己言及的に描き出していた。
「電車」はその典型だった。かつて庵野秀明は『式日』の中で電車と映画の関係について触れていたが、ここではそれがより自覚的・批評的な形で描き出されている。
トンネルという最終到達点を、あらかじめ想定された電車の進行。それはつかの間の生の躍動を見せ、寂しさの中に終わる映画の表象だ。トンネルの向こう側には「現実」が広がっている、という物語上の仕掛けも相まって、これは投げやりな希望が、この箱庭の中にない、というイデオロギーの代替のようにも見える(※1)。
それでもそこで生きていくこと。匂いと痛み、現実を規定するそれらを享受して生きていくこと。それを選び取ることを、この映画は最後に肯定する。現実に触れたことで、生を得たキャラクターたちに否応なしに生まれる「最期」を。
物語の終わりとは、虚構の死、キャラクター身体の、本質的な死だ。それはどこまでも仮想の死であり、それが自覚的に描き出されるとき、そこに我々は、本質的な、我々自身の死を見て取ることができない。それは安全に痛い死でしかないはずだった。
けれどここにおける「死」は最後に反転した。それは現実の死の質感を持つものになった。上位虚構としての、どこまでも記号である死ではなく──「物語の終わり」というメタ的な死の接近によって、そこには「我々の」死が現出することになった。キャラクターがキャラクターを超え、つかの間銀幕を越境し、そして彼方へと去っていく。そこには、どこか失恋にも似た寂しさがある。
そうした作品として。無限に続く虚構の円環と、それが終わりゆく寂しさを語った映画として、これは存在する。
※1:あの後虚構の見伏がどうなったのかは解釈の余地があるが、ここではひとまず小説版における「消えていく自分達」(P230)「終わる見伏で、わずか一瞬の命だったとしても……」(P231)という部分から、消滅の運命が訪れる、という解釈を採用する。
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