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【短編】「アプリケーション」

 「「「「「「「出会いに省略形なんてない。でも、普通に恋愛して、普通に付き合って、普通に別れるだけで、自分の居場所を失うリスクをとるなんて、割にあってない。」」」」」」」

 今の時代、「誰もが」そんなふうに思っていると思う。わたしもそうだし、みんなそう。先日も「最近の若者はね」って、見知らぬおっちゃんに飲み屋で絡まれたが、ああいう人たちは基本内弁慶なのだ。しかも、家の中では威張れない。威張れるのは、居酒屋だ。そんな大人たちに「どうしてもっと頑張らないの?」と言われても、なんと返すのが正解なのか。
私たちはいつも、どうやって返事するのが一番コスパがいいかってことを考えている。
 会話を省略したいのだ。
 あるいは、自分の気が向いたときに、返事をしたい。返事を保留したい。
先のことを考える時間が欲しいし、その間も、なるべく考えたくない。

 今日も電車に乗って、会社から帰る途中。私はスマホでアプリを開く。あんまり気が合いそうな人はいない。スワイプする指だけが、捗っていた。

 向かいの席に、同じようにスマホをいじる女性がいた。年齢はおそらく同じくらい。表情は堅かった。というより、生気がないようだ。逆の手は、一回り、あるいはもっと、年齢が上であろう男性が握っていた。
「そういうところだぞ。」と私は思う。
 「私たち」のことを好き勝手言うくせに。誰も、私たちを怒ろうとはしない。反撃されるのが怖いのだ。〇〇ハラスメント。この言葉は、当初、若者にとって、途轍もなく便利な言葉であるように思われた。受け取り手の言い分で、いくらでも、相手側から自分を守れるのだから。でも、「私たち」は使いすぎたのか、あるいは、メディアが、それも、とりわけSNSが、騒ぎ立てすぎたのかわからないが、今では逆転している。大人が怒らなくていい理由になったのだ。「彼ら」はもう、後先考えずに、叱ることができない。怒ることなんてもってのほかだろう。そして、それを隠れ蓑にして、自分たちも甘い汁をすする方へと落ちていった。「パパ活」と呼ばれる。
 それが犯罪であること、それに値する愚かな行動であること。誰もかれも、そんなことをもう覚えていない。
 若者が、「自分たちの自由だ」と言うのと同じように、この年齢の大人たちも「自由だ」とかって言うのだろうか。みんな、そんなもんじゃないって、本当は気がついているのに。若者に合わせる。今の時代に沿って生きる。そんな、身勝手な言い分が、自分の父親くらいの年代の大人たちから聞こえてきそうになる。
 今の「私たち」に必要なのは、イヤホンよりも耳栓かもしれない。もう、「私たち」の心を安らかにしてくれる音楽さえも、この先、なくなってしまうような気がするからだ。
 音楽もいつかは貪り尽くされるんだろうな。私は先日、出張先から帰る新幹線でそう思ったばかりだった。隣に座ったおじさんは、ビールのロング缶とスルメをかじっていた。しかもここは自由席だ。どうしてそれがマナー違反でないと思ったのだろうか。どうしてこんなにも、隣に座る人間のことも考えられなくなるのだろう。そして、そのおじさんは、安っぽいワイヤレスイヤホンをつけて、私の方を見ないようにする。音楽を再生しようとして開いていたのは、違法アプリだ。無料で色々な音楽を聞くことができる。
「そういうところだぞ。」私は思った。
 「こういう人たち」が作り上げた都会の喧騒は、「私たち」が慣れ親しんでいる不愉快なSNSと大差ない。
 まあ、SNSの炎上の歴史を考えれば、それさえも「私たち」の世代以前の問題だ。でも、誰もそんなことを、もう信じていないし、きっとこれからはもっと、誰も、信じようとしない。

 「そういうことろだぞ。」この言葉は、私のいろんな感情を省略してくれる。
 上京してからというもの、電車に乗るたび、私はこの言葉を唱える。まるで呪文。あるいは、決まりきったセリフを言うNPCのようだ。

 家の最寄り駅に着くと、決まりきったようにスターバックス・コーヒーに入る。もうここの店員に顔も覚えられた。他の店だと、私は、顔を覚えられるのは嫌なのだが、ここはそんなに嫌な気がしない。むしろ、よく誰にでも、いつも、笑顔で愛想良く接客できるものだな、と感心する。応援したくなる気持ちもあって、私はついつい通ってしまう。
 もしかして、最近流行りの推し活も、こんな感じなのかな、と思う。

 ふと、私の指が止まる。見覚えのある顔だった。私の画面は、さっきの電車からずっと、例のアプリを表示したままだったが、そこに、普段とは違う感情を湧かせるものが映った。

 「あのお兄さんだ。」
 それは、一番最初に私の顔を覚えてくれた、ここの店員だった。レジのカウンター越しにしか、ほとんど話したことのない彼のプロフィールが、そこには載っていた。

 私は、そこに「足跡」をつけるかどうか迷った。このアプリでは、申し込みをするしないに関わらず、プロフィールを全部見ると、相手側から、自分が閲覧したという知らせ、「足跡」がつくようになっていた。

 「こういうところだよね…。」私は思わず、ため息をついた。
 要はどういうことか。
 私は、このプロフィールを訪れることで、今後、このスタバに通いづらくなるのではないか、と心配しているのだ。そう、私、いや、「私たち」はいつも、そういうことを心配している。以前は、こんなんじゃなかったはずだ。たとえば、私を産んだ、お父さんとお母さんは、高校時代の同級生だ。馴れ初めはこの際どうでもいい。とにかく、「彼ら」は、自分たちが所属する、何らかのコミュニティで出会い、周囲に各々の過去を知っている人がいる中で、恋愛関係に発展し、そして結婚して、私を産んで、今も実家で暮らしている。たまに喧嘩もするけど、少なくとも、私の目には幸せそうに見える。

 「普通の恋愛って、多分そういうことなんだろう」と思う。でも、「私たち」はちがう。「私たち」はもう、覚悟とか、周りの目を気にしないとか、そういうことができない。ある人間関係が自然消滅してしまうまで、「私たち」はその人間関係に囚われて生きていくしかないのだ。「私たち」の人間関係は、もはや一本の糸では繋がっていない。目に見える一本の糸に絡まるようにして、透明な糸ががんじがらめになっている。つまり、「私たち」は、相手に全く気が付かれないように、相手に憎悪、嫉妬嫉み、軽蔑、といった感情を持ち、それどころか、発散して、誰かと共有できてしまうのだ。
SNSはそういう場所だ。私の住む都会は、それを現実世界におとしこんだだけだ。ぽっかり穴の空いた空間で、「私たち」は、いつも、浮かぶように生きている。誰も地に足をつけて生きてなんかいない。人目につかない場所なんてない。だから、せめて、知人のいない場所を見つけて毒を吐いている。知人に関する毒を、だ。その場所が、二次元か三次元かは大した問題にすらならない。そうして、全く知らん顔をして、明日もその知人と一緒に時間を過ごしたりする。もしかしたら、今日、目の前に座っていたパパ活カップル(カップルだなんて言葉は、につかわしくないが、もうどうでもいい)のあの子は、私の友達だったかもしれないし、あのおじさんは、お父さんの上司だったかもしれない。だから「私たち」は、いや、「私たち」だけじゃない。「今を生きる全ての人」は、恐ろしい偶然に遭遇しないように目を窄めて、画面を見つめて生きているのだ。電車の狭い車内で、万が一にも、そういう人と目があったら最後なのだ。

 そういうわけで、「私たち」は自分と、人生を共にするかもしれない人と、運命的に出会うことを欲している。つまり、その時が来るまで、決して会うことなく、突然にその人がやってきて、私に惚れてくれることを期待している。
 「私たち」に必要なのは、給料でも、社会的地位でも(だって、それを得ている人たちがさっきのような人たちなのだから)、ましてや夢や、成功体験でもない。私生活のサード・プレイスだ。友人の輪や、仕事にまつわる人間関係とは別のところに、恋愛関係の人間がいてほしいのだ。最も近しい人間になるからこそ、お互いの心の内側に入っていくからこそ、そういう人間であってほしい。「私たち」は信じ切ってしまっている。もしも、すでに同じコミュニティに同居している人間と、そういうことになれば、面倒なことになる、と。目に見える糸が一本増えるだけでも、それは、元々あった目に見える一本と絡まってしまうのに、そんな状態でお互いの心の内側に入ってしまえば、目に見えない糸も相まって、身動きが取れなくなってしまうのだ、と。
 だから、順序が重要なのだ。恋人として出会って、そして、私の友人と仲良くなってほしい。もしも別れたとしても、それならば、私はこの友人たちと、ずっと友人でいられる。

 そう、これは問題なのだ。この画面をスワイプして消し去ってしまわないことは。でも、本当に?ここはただのカフェのはずだ。私にとってなんでもない場所ではないのか?いや、なんでもない場所なんて、もうこの現代にはないのかもしれないけれど。

 「こんにちは」と声がして、私はスマホの画面を切りながら、伏せて、顔をそちらの方向に向ける。先ほどまで、目の前にいた画像と、同じ目の色の男性が、そこにはいた。
 「いつもありがとうございます。」
 私は、なんて返そう、と思っていた。もしかしたら、画面を見られた?そんな予感。でも、彼は何も気にしていなさそうだ。ここで吃っていたら、それこそ、変に思わてしまう。
 「あ、びっくりしました…。今日は出勤されていたんですか?」
 「先ほどまで、ね。ただ、もう上がりました。ということで、私もラテをもらったんです。同じやつですよね?」と彼は、私のカップを指差した。同じ飲み物を持っているその手で。「いつも、頼まれるから。違いましたか?」
 「いえ、さすが。その通りですよ。」私は思わず笑ってしまう。彼も、はにかみ笑いをする。この笑顔は、いつ見ても素敵だな、と思う。


 それから、一週間後、あのアプリに、例の彼からのメッセージが届いた。彼も、私を見つけたらしかった。あるいは、やはり、あの時、見られていたのかもしれない。足跡はつけていないはずだから、バレていたとしたら、画面を見られたのだろう、と思う。なにしろ、あの会話の後、彼は、私から見て斜め向かいの席に座ったのだ。そして、スマホをいじりながら、同じラテを飲んでいた。私たちは時々、同時に、飲み物を持ち上げて、口にそれを流し込んでいた。そして、一度だけ、たった一度だけ、彼は私の方を見て、笑った。それは、照れているように見えたが、ニヤリ、と笑ったようにも見えた。私はそれに気がついていた。そして、もう一つのことにも気がついていた。あの時、たまたま目があったような、そんな雰囲気で、お互いを見つめあっていたけれども、実際は私がずっと目線を送っていたから、目があったということを。

 彼からすれば、私は、向こうからやってきた女の子、なのだろう。彼はいつも、レジの向こう側にいて、そう、ずっと待っているだけだったのだから。そして、ここにきて、彼はそこから飛び出して、私の方に声をかけてきた、ということなのだ。
 けれども、私は、そのことに気がついていながらも、向こうから私にアピールしてくれているように思えて仕方がない。私の胸は少しだけドキドキしている。うまういくかもしれない、と思うと、ワクワクさえする。このアプリが、省略してくれた色々なことを、これから先、彼と一緒に取り戻していくのだ。スタバ店員と客、アプリで繋がったふたり。そんな要約できる、あるいは、省略形で語れる関係以上になれるかもしれないのだ。
 それにうまくいかなくたっていい。よくよく考えれば、彼は間違いなく、私にとって、友人でも、仕事関係の人間でもないのだから。
 でもきっとうまくいく。
 もしかしたら今日、電車に乗って、最寄駅に向かう途中に、彼と同じ車両に乗るかもしれない。
 そうでなくとも、彼はいつも通り、レジに立っている可能性が高いのだ。
 でも、もはや、あのレジカウンターは、私たちの間を、何一つ隔てることができないはずだろう。

 今ひとつ、問題なのは、このメッセージに、いつ、どのタイミングで、返事をするかということだ。

 私はいつの間にか、電車の座席に座っている。私は目を窄めて、画面を見つめている。何度も、キーボードを表示させては、それを閉じている。彼からのメッセージは上下に何度も揺れている。私は、まばたきもせずに、それを目で追っている。

 最寄りまであと二駅とわかる。アナウンスが耳に入ってきたのだ。私は今日は、イヤホンをすることも面倒になっていた。

 改札を出たら、メッセージを返そう、と私は決める。

 それから、目線を上げようとして怖くなる。首を下に折り曲げたまま、私はイヤホンをしなかったことを後悔する。私は久しぶりに、SNSを起動してみる。


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