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【短編】移動

 その日は雨が降っていたと思う。窓から景色を眺めると、車の速度に合わせて景色が変わりながら、その全てが、ぼんやりと、乱反射していた記憶があるから。雨音も聞こえていたはずだけど、あまり覚えていない。あの日は眠かった。

 その日、私は仕事に追われていた。ある会社との契約に関するちょっとしたミスが、私の退勤時間を、予想よりも遅らせていた。
 「大丈夫?」と言う上司。その言葉は、今の仕事に対しての心配ではなかった。明日、私は、新宮にいなくてはならなかったのだ。その時はまだ18時を回っていなかった。だから、「大丈夫です」と答えた。
 けれども、それは失敗だった。和歌山駅から新宮までは電車でかなりの時間がかかる。夜中の20時とはいえ、もう終電はなかった。「うそ!」と声が思わず出た。明日の会合は朝の10時には始まる。そして、この会合に出席した前の社員は、連絡も入れずに遅刻していたため、今回は「やらかし」が許されなかった。昨年に入社したばかりの私には、それだけでプレッシャーがあった。それに追い打ちをかけるように、先ほどの契約ミス。考えれば考えるほど、この終電を逃した事実は、必然的なものに思えてくる。自分の未熟さが招いた必然。

 上司に電話をかけるが、繋がらない。2人目にかけても同じだった。こういうときに、たよれないなんて、と思いながら時計に目をやる。もう出勤時間はとうに過ぎている。私ももう、退勤扱いのはずだ。
 とにかく、自分でなんとかするしかない。LINEを開いた。

「レンタカー借りたら?」

「とりあえず、梅田まで戻ってきた方がいいんじゃない?」

「法人登録でカーシェアやってるって言ってなかったっけ?」

と、反応は様々だった。私はそれぞれのチャット欄を開きながら、それらの解決策が全く機能しない理由を、丁寧に打って送った。指が震えていたが、スワイプは慣れた手つきだった。むしろ、いつもより早いくらいだ。少しだけ、誤字があった。でも気になんてならなかった。

「ヒッチハイクしたら?」

と、あるグループで男子が言った。つかさず、もう一人の男子が「それだね」と返した。確かに、公共交通機関が使えない今、新宮まで移動する最も現実的な手段かもしれない。

「ストーップ!だーめ!絶対だめ!」

と、ある女子が言った。「女の子が一人でヒッチハイクなんてダメ!」

すると、「じゃあ、タクシーしかないね。」とその男子が言った。

そりゃ、そうだけど。私は内心、そう思った。タクシーが本当に現実的な手段と言えるのだろうか。一体どこに、和歌山から新宮まで走ってくれるタクシーがあるのだろう。もしかしたら、それは、業務の範囲内なのかもしれないけど、そんなことって本当にできるのだろうか。やっぱりヒッチハイクの方が妥当なのではないか。

 和歌山駅には、東口と西口のそれぞれにタクシー乗車場がある。時刻は22:00を過ぎようとしていた。私は東口にいた。本当にタクシーしかないのだろうか、とため息混じりに考えた。空を見上げると、夜だったが曇っていて、雨が降り出しそうだった。もう、やるしかない、と思った。私は、なんとなく、西口のタクシー乗り場に向かった。

 「ちょっと、待ってよ。」と、私が申し訳なさそうに、要望を伝えた後、彼はそう言ってから、後方のタクシードライバーに、話しに行った。

「5万、6万かかるよなぁ?」

「せやねぇ。ちげぇねぇ。」

そういう会話が聞こえた。そして、「ねーちゃん、6万はかかるけど、いいかい?」と尋ねてきた。私は安心して、首を縦に振った。

「タクシー見つかりました…。送ってくれるらしい(泣)」と、私は先ほどのグループに送った。「ええ!ほんまに?」と、みんな驚きながら、私を心配していろいろメッセージを送ってくれた。

 移動中、私は窓の外を見ていた。景色はまだまだ都会の雰囲気があったが、それももう、消えかけていた。窓に雨粒がつき始めた。雨が降る前に、タクシーが見つかってよかった、となぜか安堵していた。

「雨降る前でよかったね」と運転手は言った。「仕事かい?」

「ええ、そうです。あの、本当にありがとうございます。」

「いや、いいんだよ。おっちゃんね、これ、仕事だから。でも、まあ、少し話付き合ってよ。」

それから、その運転手はいろいろな話をしてくれた。私は正直眠たかった。

 車はだんだんと、街から山の方へと移動していった。これが、今日の私の退勤であり、明日の出勤なのだ。聞いたところによると、着くのは3時くらいになるかもしれないとのことだ。途中、インターチェンジに入った。その分の代金は、支払いのときに一緒に渡すことになった。
 運転手は、ずっと話しかけてくれた。それなりの返事をしていたけど、私は、自分が今移動できていることに安心感を覚えていて、それに夢中になっていた。今、私は、和歌山駅にはいない。国道42号を通って、バイパスを通っているのだ。それだけで、どれほど安心できるだろうか。もしも今、こうして車に乗っていなかったら、私は今もきっと和歌山駅にいたはずだ。友人にも心配をかけ、上司とも電話が繋がらないまま。

 もうこの辺りから記憶が曖昧なのだが、私の乗っている車は、山道へと入っていったと思う。もしも、自分でなんとか車が手に入って、新宮まで来ていたら、こんな山道を通らなくてはならなかったのかと思ったことは覚えている。運転手は、難なくその道を超えてくれた。その間もずっと喋っていたと思う。
 どうやったのかはわからないが、私は予定よりも2時間くらい早く新宮についていた。どうやら、3時くらいにつく、という話は少し大袈裟だったようだ。とはいえ、私がタクシーに乗ったとき、Googleマップでは2時間半はかかると出ていたから、やっぱり予定より早かったと思う。そのドライバーは、30分以上はまいてくれた。

 移動代は6万以上だった。その引き落としは今月来るはずだ。忘れた頃にやってくるね、と友人には言われたが、全くそんなことはない。まだまだあのときの事を思い出すと、手が震えそうになるのだ。

 私は今、西宮北口駅構内の蕎麦屋にいる。駅の窓の正面には、ちょうど電車が止まる場所が見える。この駅が終点なのだろう、電車は到着するたびに、再び来た道を戻っていった。そういう光景が何度も続いていた。その窓からは、停まる電車の正面が見える。運転手と目が合いそうで、やっぱり合わないな、と思いながら、私は蕎麦を啜っている。
 仕事、というだけで、私は普段の私ではないような感覚に陥る。なぜ頑張っているのか、なぜ頑張らなくちゃいけないのか、私はわからないのだ。学生の頃は違った。そうじゃなかった。明確な目標なんか自分で持たなくても、自分の居場所に、何かしら明確な目指すべきものがあったのだ。サークルならコンクールや大会、学業なら単位取得や卒業、バイトなら収入。目指すべきものがあったから、そこには私のような人間の居場所が自然と用意されていた。つまり、それに向かって頑張れない人がいると、その人をどう扱うべきか悩んでいたし、頑張っている人を白けた表情で見つめる人のことが、嫌いだった。でも、今はどうだろう。インスタやツイッターを見ると、そういう人たちの方がうまく社会に適応できている気がする。実際にそうなのだ。ほどほどにできる人が結局、会社の中でも自分を保って生きていけているというのは、上司を見ていたって思うことだ。大学に入って初めてバイトをしたときのこと。それはカフェのキッチンだった。店はオープンしたてで、私も最初の従業員のうちの一人だった。ある社員が、あるとき、事務作業をしながら私に「言われるように働くか、それを使う側の人間になるか。わしらみたいなもんは使われるしかないからね。」と言っていたのを思い出す。その人は、まもなく辞めていった。それは、この職場で初めて辞めていった社員だった。私も今、使われているのだ、と思う。蕎麦を啜るこの時間だって、業務上許されているだけであって、移動時間として割り当てられているに過ぎない。私はこの蕎麦を食べ終え、そして、目の前を何度も来ては離れ、来ては離れていった電車についに乗って、やがて移動する。それから宝塚駅で降りて、営業先に向かうのだ。移動する手段があるからには、私はどんなところにでも遣わされるだろう。現代はこんなにも便利なのだ。陸続きであれば、行けない場所はほとんどない。先月と違って、カーシェアの登録もちゃんと済ませた。先週、それを使って現場にも行った。もう、自分が運転できなくて、どこかに行くことができないなんてこともない。この前はホテルに1時にはチェックインできたし、少しは仮眠も取れた。今後は、間に合わない、と思っても、会議が始まる前に車がつけばいい、ということになる。自分のミスで、もし何かを取り違えたとしても、会社にとって私が自力で移動できることには変わりがない。先月だって移動できたのだ、今後だって同じことだ。

 でも果たして、それをするのが自分でなくてはいけない理由ってあるのだろうか。これは掘り下げちゃダメな類の疑問な気がする。本当は掘り下げられる人間こそ本物なのだ。でも、そういうことをしたら、社会で生きていくってできない気がする。
 学生の頃。とにかく努力することができた私。そんな私を好きになって付き合った彼もいた。あのときの彼は、あっち側の人間だろうな、と思う。人づてに聞いたが、今はイキイキと仕事をしているらしい。ちゃんと収入が入ってくる生活に満足しているようだ。私はどうだろう。今、満足しているだろうか。移動時間が十分にあるから、その時間の合間を縫って、こうやって蕎麦を食べているけど、本当は移動することよりも大事なことがあるのではないか。それは私の人生における大事なことだ。人じゃない何かに使われることなんかよりも、そのために移動する毎日を過ごすことなんかよりも、この目の前の蕎麦に集中して、一所懸命に食べることのほうが大事なんじゃないのだろうか。うまくいかなかったとき、こうして食べる何気ないご飯に、涙を流したことがあったじゃないか。努力をしたからこそ、うまくいかなかったときなんかに。

 私は、お盆を下げる。返却口の横にあった湯呑みを一つとって、お茶を機会に汲ませ、一息にのんで、それも一緒にお盆の上に載せた。返却口から、中で働いている人たちが見える。この蕎麦を作ってくれたのは、あのおじちゃんかな、と思いながら、目が合わないように気を付ける。「ご馳走さん。」と、私は言う。彼らの仕事の邪魔にならないように、さりげない音量で。蕎麦や丼を食べている他の人の気を引かないような、さりげない響きで。それでもなるべく、中の人に聞こえるように意識して。私は店を出る。電車がちょうど、出発して、むこうへ遠ざかっていく。次の電車が遠ざかるとき、私も一緒に遠ざかる。私はなるべく奥の方まで歩く。そして、一番人が並んでいない乗り場に立つ。あと、9分くらい時間がある。先ほどの蕎麦屋の隣にコンビニがある。飲み物だけ買おうかな、と少し考える。そして自分が来た道を見つめながら、やがてコンビニのところで視線を止める。ここまで来ちゃったんだから、引き返すのは面倒だな、と思う。私はもう一度、時計を見る。次の電車が来るまで、あと、6分くらいだった。

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