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カフカ「雑種」ー猫羊は僕たちの認識に従わない

あらすじ

 物語というよりはある動物についての観察記と呼べるかもしれない。主人公が父から譲り受けたのは、頭と爪がで、胴体と大きさはという、猫とも羊とも区別のつかない一匹の動物だった。
 この動物はまた猫とも羊とも、仲良くしない。そして猫の頭をしているくせに、ネズミには尻込みする。なぜか子羊には襲い掛かる。鋭い爪を持っているのに、鶏をつかまえるのが苦手だ。
 ところで主人公と心を通わせる節があるので、中身は犬なのかもしれない。そんな生き物だから、自分の存在の立ち位置について特別な悩みも抱えているようだ。主人公の耳元で何かを訴えるそぶりもみせる。そんなとき、飼い主である主人公がこの動物を慰めてやらなくてはいけない。
 この生き物について、物語は以下の主人公の述懐が続き締めくくられる。

原文:
もしかするとこの動物にとって、肉屋の包丁こそ一番の救いかもしれない。だがせっかくの父からの遺産である。ここはひとつ相手が息をひきとるまで待つとしよう。

 おわり

 うん、相変わらず、ぶっとんだお話だけど、慣れてきた。この動物にとって肉屋の包丁、つまり死は救いなのだろうか。僕は猫羊にとっての救いは「死」ではないと思う。この物語の飼い主も、肉屋の包丁こそ猫羊にとっての救いだなどと思っていたが、息を引き取るまで待つとしようと思い直している。その理由について思うところがあるので、書いてみたい。

猫羊は僕たちの認識に従わない

 種とは一つのカテゴリーであり、その区分けは人間の認識に基づいている。猫であれば、尖った耳とかネズミを食べるとか、外見や行動に共通する特徴を認識することによって、「猫」という種(カテゴリー)が出来上がっている。そして、その区分けに基づいて、僕たちは猫だったり羊だったりを判別し、認識するわけである。
 しかし、この猫羊は僕たちの経験によって培われた認識に従わない。ねずみを怖がり、鶏をつかまえるのが苦手で、子羊を襲うことがあり、人と心を通わせるのだ。確かに、異様かもしれないが、それはこちらの勝手な解釈(区分け)が先という訳だ。

 ところで哲学者のカントは認識について、純粋理性批判と言う著書の中で以下のことを書いている。

認識が対象に従うのではなく、対象のほうがわれわれの認識に従わなければならない

 もし、これが皮肉であればその通りだと思うが、この物語では、対象となる猫羊が僕らの認識に従わない。

 それに猫羊は種の区分に当てはまらないだけではない。作中では飼い主である主人公が、ペットである猫羊を慰めてやろうとする場面がある。そう、この猫羊は時に、ペットという立場すら逸脱するのである。「ペットは癒し」と言うのはよく聞くが、この作品では飼い主がペットにとっての癒しなのだ。そんなわけで猫羊はペットと言う認識にすら従わないのだ

そんな猫羊にとっての救いは死ではない、と僕は思う。猫羊の存在を曲がりなりにも理解する主人公という友、あるいは家族、つまりは理解者の存在こそが救いなのではないか。だから主人公も最後は息を引き取るまで待つと思い直したのではないか。

人間社会の猫羊

 ひるがえって、人間社会でも猫羊はいる。僕たちは、同じ人種、同じ国、同じ趣味、同じ好きな食べ物、さまざまな属性に基づいて、共通の部分を見出そうとする。しかしその認識に基づく特徴から外れた存在だっている。カレーが嫌いな子供だったり、ゴキブリをさわるのが好きな女の子だっているわけだ。だけどそういう人が、周りの認識に従う必要はない。ここで周りの認識と言うのは「子供なんだからカレーが好きでしょ」とか「女の子なんだからゴキブリは怖いでしょ」とかそういうのだ。そういう決めつけだ。
 そのせいで変なやつ呼ばわりされたって、普通のやつに成り下がることはない。むしろ、共通認識という狭い空間で生きる方がよっぽど窮屈だと僕は思うし、そんなものを気にしない方が、よっぽど自由だ。それに必ず、猫羊には理解者がいるものだと僕は信じている。

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