フランツ・カフカ「田舎医者」

 この世は理不尽だらけだ。会社で上司にいわれのないことで怒られたり、客先で無理難題な要求を迫られることもある。ようやく帰路に着こうとしたところで、赤ら顔の酔っ払いに突き飛ばされる。家に帰ったところで、外で食べてくればいいのに、とあしらわれる。
 もうこんな世の中たくさんだ!と頭をよぎることもあるだろう。
 そんな思いを抱えたのはどうも現代のサラリーマンに限らないらしい。カフカの生きた時代、20世紀初頭の働き手も、なかなか理不尽な思いをしているようだ。それはこの物語の場合、とある田舎医者だったようだ。

あらすじ

 物語はとある田舎で医者をやっている男が、真冬の真夜中に苦しむ患者のために、女中と一緒に馬を探す場面から始まる。もともと、持っていた馬は村からの度重なる呼び出しに駆け付けるため、酷使され死んでしまった。
 そこへとある大柄な馬貸しが、二匹の馬がついた馬車を貸してくれると言う。しかし、医者を先に一人乗せると、
 「そら行け!」
 馬貸しの一声で馬が走り出してしまった。馬貸しはその場に残り、医者の女中と2人っきり。最初から、女中を襲うつもりで無理やり医者を馬車に乗せて、発進させてしまったのだ。20世紀初頭のクズである。馬は止まれと言う医者の言うことは聞かない。飼い主に言われた通り、村の苦しむ患者の元へと医者を連れていく。
 家の中にいるのは、ベッドで横たわる少年とその家族。大事な女中の安否が心配でならない医者は早速、診察を始めるが、どこも悪い所はなさそうだ。だがどうにも、ただでは帰らせてもらえない様子。少年のわき腹を調べると、大きな傷がぱっくり開いている。
 傷を見つけたが早いか、医者は突如、家族と村の者たちに裸にされてしまう。裸にされると、少年と同じベッドの中で、少年のぱっくり開いた傷のところにぴったりと医者は体をくっつけられてしまう(絆創膏代わりか?)
 そんなことが無意味であることは、少年もよくわかっているようで、少年にさんざん皮肉をぶつけられながら、なんとかなだめる医者。ようやく寝静まった少年からそっと離れると、服と荷物をまとめて、村から一目散に逃げだした。しかし、肝心の馬はいうことを聞かず、動かない。

おわり

不条理に振り回される医者

 冬の間、村人のために駆けずり回ったあげく、馬は死ぬ。それでも助けを呼ぶ患者の元へ行こうとしたら、女中は馬貸しに襲われた。村に到着して診察すると医者は、身ぐるみをはがされる。今度は患者である少年にさんざん皮肉を言われてしまう。とどめは、女中のことが心配で家に帰ろうとしても馬は言うことを聞いてくれないときた。

 もし、こんな一日があったら、どうだろう。人生の転換点になりうるような理不尽さである。個人が、一人が、ここまでの理不尽に耐えられるものだろうか。いやだからこそ、最後はこのような文章で括られている。

原文
この世の馬車と、この世ならない馬のまにまに老いぼれの私がうろついている。...たとえ偽りにせよ夜の呼び鈴が鳴ったら最後、もう取り返しがつかないのだ。

 この世の馬車が医者で、この世ならぬ馬が理不尽な現実を表しているとしたら、馬車は文字通り現実に引きずり回されているのではないか。
 そして夜の呼び鈴は、今で言う所の119番に思える。大きな病院でも大変だが、個人が毎回119番で呼ばれたとしたら本当に大変なことだ。そして今回の出来事ではまさに「女中が襲われる」という取り返しのつかないことが起こっている。

何を優先すればよかったのか

 この田舎医者は上に書いたように評されることも多い。個人と世の中の不条理の構図である。
 しかし、そもそも理不尽とはなんだ。本当に世の中が理不尽なだけで、個人に為すすべはないのだろうか。考えてみると、この物語は、そもそも個人が己の能力の限界を超えて、何かを為そうとしたことに端を発しているのではないか。
 冬の間、この医者は職務のために馬と言う資産を酷使して、馬をダメにした。そのために猛吹雪の中、女中を使って馬を探させている。そして今度は大事にしてきた女中までをも、結果として傷つけている。

 そもそも、馬と言う移動手段を失っている時点で行かないことも選択できたはずだ。文中には出てくるのだが、田舎医者とはいえ、国の契約医なのだ。個人でやっている訳ではない。馬がいないことを理由に、国に支援を要請してもよかった。
 しかし、このお医者様は「呼び鈴(呼び鈴の先に必ずしも患者が待っているとは限らない)」と「患者」のために、動かずにはいられない。己の評判や、金のためではなく、助けたい患者のために動くような男なのだ。優先するべきは目の前の患者だったのかもしれない。

 しかし、この優しき医者は職務を通じて助け続けたいという気持ちはなかったのだろうか。いやあったにせよ、ならば世の理不尽の言いなりになるべきではなかったのではないか。この世ならぬ馬(理不尽)がいたとしても、状況はこの世の馬車(現実)であり、その手綱をにぎるのは医者自身なのだ。

読者としてのわたし

 しかし、しかしである。目の前の患者の命と、これからの救えるであろう患者の命を天秤にかけることができるものだろうか。いや、まて、私がこの医者ではない以上、何も言えるような立場ではないか。むしろ私はこの場合、村の人々の存在に近い。第三者として医者の生き方にクレームを言っているだけだ。
 もし、この絶望的な状況が世界のあちこちで形を変えて起こっているとしたら、人々に出来ることは想像力を働かせること以上の何物でもない。生きている上で、何を犠牲に、何に支えられて生きているのか、認識する努力を怠ってはいけないのではないか。

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