見出し画像

相談って、なに?

家族に悩みを打ち明けるということ、相談するということ、
そういう「当たり前」のように思えることをわたしは全くしてこなかった。

小学生の頃から学校はつまらなかったし、友達とケンカしたこともあったり
して面倒だと思ったこともあった。
中学校では女子特有の、グループ内で順番に回ってくる「ハブる」標的にされたこともあったし、思春期の男子がしてくる下ネタや行動に戸惑ったり、
男子と女子の「付き合い」も始まり、まだそういう気持ちが持てなかったのに無理についていこうとして悩んだり、他の女子と比べて足が太いとか体毛が濃いとか、そういうことに困ったりもした。

体型のことや体毛のこと、体のことはまだ、意識に上ってきていたが、
人間関係に関わる感情の部分は全部、自分に起こっていることではなく、
どこか上滑りするような、心とは切り離れた世界で起こっていることのようで、真正面から受け止めきれなかった。

そして、家に帰ると父が母に対して怒っており、その内容は支離滅裂で、
母は何も答えず話さず暗い顔をしており、叔母もいたたまれない表情と、
陰で愚痴を言うばかりな家だったので、私は相談することや受け止めてもらうことをほとんど、いや、全くと言っていいくらいに学べなかった。

むしろ、感情を口に出すことは相手を攻撃すること、もしくは攻撃の機会を与えること、思いを伝えることは相手を糾弾することだったり怒らせること、提案することは相手の自由を奪うことや非難すること、くらいに思っていた。

なんてねじ曲がった世界線だろうか。
書きだしてみると、おかしすぎて笑ってしまうくらいだ。
だけど、それが私の生きる世界だった。
父と母が中心になって繰り広げる世界を、
わたしは忠実に受け止め、大切に守っていたのだ。

だから、言葉にするということ自体が頭になかったし、
相談や打ち明けるなんてことは、自分の身を危険に晒して、
相手を悲しませ苦しませる行為だと思っていた。

同時に、ネガティブな気持ちを持つ自分を、わたしは認められずに
心の奥で何度も何度も責めて攻撃してきたと思う。

「いい子」にならなければいけない。
なんでも「肯定的」に受け止めなければいけない。
「苦しい」「つらい」「悲しい」と思ってはいけない。
思ったとしても、出してはいけない。

ネガティブな気持ちの心のタンクは、あっという間にいっぱいになった。
きっと、もう、保育園とか小学校のころにいっぱいだったのだ。
叔父に救われ軽減したが、亡くなってからは溜まる一方だった。
ネガティブな気持ちは私の心と体を埋め尽くした。
感じないようにしても、そこに「ある」から、どんどん侵食していく。

そうして、わたしは少しずつ壊れていった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?