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間違った処世術

人といると、基本的には物凄く疲れてしまう。
特に会社に出社したときは、帰ってくると頑張りすぎて疲れ切ってしまう。

わざと、一瞬聞こえがいいように書いてみたが、実際は全く違う。
勝手に周囲の人の仕草、行動を見て、考えて、
勝手にその場で自分に求められているであろう役割を予測して、
勝手に過剰に期待を感じ、感謝してもらえるであろうポイントを感じ、
勝手にそれらを頑張りすぎて、
勝手に疲れるのだ。

つまりは、空回りして、自分のエネルギーを余分に使いすぎているのだ。
相手にとっても、多かれ少なかれ役に立ったとしても、ただの負担なのである。
自分では「いいことをしている」つもりだから、とてもたちが悪い。
そういうことは、なかなか「嫌だ」と人に言わせにくいし、
逆に「なんとなくめんどくさい、嫌だ」と、思わせてストレスを与えてしまう。

これまでに、信頼している方がそのことを指摘してくれていたけれど、
自分では「頑張っちゃう自分かわいそう」なんてことにフォーカスしてしまっていて、
全く意図を理解できてなかった。
本当に、恐ろしいものだ。被害者意識って。

こういうことも、家庭環境から来ている。

なんとか、家族が仲良くしてほしかったし、
なんとか、笑ってくれるようになってほしかったし、
なんとか、ホッとできる場所にしたかったし、
なんとか、穏やかに過ごしたかった。
実際は、ばらばらで、勝手で、笑顔は少なく、
怒りと恨みと悲しみと妬みがほとんどで、
全く安心できない、安全でもない、真逆の場所だった。

なんとかしたかったし、同じくらい自分のことを救ってほしかった。

その場で「いいと思うであろう」ことをして、空気や場を良くしたい自分と、
その場に「そぐわない」ことをして、見てほしい、構ってほしい、気づいてほしい自分が同時に存在している。

書いてみると、とてつもなく面倒くさくて、ともすれば失礼になることだ。

家庭環境が悪かったのはわたしのせいではない。
大人であり、やるべきことをやらなかった人たちのせいだ。
私がなんとかしようとする必要はなかった。
むしろ、何とかしようとすべきは周囲の大人たちだった。

構ってほしいのだったら、単純にそれを伝えればいいだけの話だ。
むしろ、もういい大人だから自分で自分の機嫌を取るよう努めればいい。
どうしても難しいときに、誰かやなにかの力を借りたらいい。

まぁ、構ってくれと言ったところで受け入れられなかったから、
こんな風にねじ曲って、「いいこと」で壁を壊し、「嫌なこと」で注意を向けさせ、
自分を見てもらおうと、救ってもらおうとするやり方が出来上がったのだと思う。

母親と、そっくりだ。
母親も、救ってほしかったのかもしれない。

だけど、わたしは自分で立てるし、心地の良い相手と支え合えるようになりたい。
相手を見ないで、気付かれないようにジワジワ破壊するやり方はもう、やめる。

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