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多くの人に聞きたい事。自分はどれだけの人間だと思いますか?

貴方は一体どれだけの人間だと思いますか?
そう聞かれた時に貴方はどう答えるでしょうか?

自分はとっても素晴らしい人間ですと答えるかもしれないし、自分なんてとっても…と答えるかもしれません。

では自分とは何だろう?という視点から考えると
今自分がここに存在しているということは、多くの連鎖から存在しているという事になります。(人の生に連鎖という表現は適切かわかりませんが語呂力が乏しい為にこういう表現をさせて下さい。)

簡単に言えば貴方のご先祖。
近い存在で言えば貴方の親と貴方のおじいさんおばあさんですね。その人たちがいたお陰で自分は存在している。
自分が存在するという現実は幾度もの人が関わって初めて存在しているという事です。

そう考えると自分て凄いなと思いませんか?


いきなりですがバタフライ・エフェクトという言葉を聞いたことがありますか?ほんの少しの出来事でその先の運命が変わっていくというやつです。

最近読め始めた百田尚樹さんの小説フォルトナの瞳。
人の運命が見える主人公が死を迎える人間を助けようとする物語です。


たった一つの行動によって人の運命がガラッと変わる...。
貴方が今ここに存在するという事は、多くの偶然の重なりによって存在しているという事になります。
映画の様ですが、貴方の両親がたまたま隣に座ったとか、たまたま飲み会の席で近くなったからとか、ほんの偶然の巡り合わせによって惹かれ合って繋がった。
そして貴方という存在を授かる事になった...。
もしあの時隣に座らなかったら、もしその場所に行かなかったら、もし時間に遅れていたら。たった1秒でも物事がずれてしまった場合でも人の運命なんて変わってしまうんですよ。


僕はこのフォルトナの瞳を読んで感じた事は
自分が存在しているという現実は、多くの偶然が重なって多くの巡り合わせによって産まれた世界で一つしかないかけがえのない命だと思いました。
確かに望んで産まれたわけじゃないという方もいます。
悲惨な人生を歩む位ならば産まれて来なければ良かったのにと思う方もいます。なので全ての命を美化することは僕に出来る権利はないのですが。
ですが今現在僕たちは存在しています。どんな人生であっても間違いなく存在をしているのです。


人生とは常に偶然の積み重ねである
時には自分を犠牲にして誰かのために命を捧げる事だってある。自分は死に他人は助かる。
命というものは軽いものではなく、非常に高貴な存在なのだと僕は思います。たった一つの言動によって人の人生が左右される。行動も存在もその全てが誰かにとっての貴重な存在となる。そしてその行動が時にバタフライ・エフェクトとして運命を変えてしまう事にもなるんです。

全て自分軸で物事を解釈してしまうと
自分は勝手に産まれて来た。親のせいで自分の人生が形成された。自分は世界で一番不幸な人間であると認識してしまえば、自分は限りなく不幸で不要な人間になるだろう。ですがそんな単純なものとして人というのは世界に存在している理由ではありません。
貴方の行動が、貴方の言葉が、貴方の姿が
時に誰かにとっての強い希望となって誰かの生きる糧になるという事。僕はそう考えるとそんな人生も悪くないなと思うんです。

一人ではもしかしたら大した存在ではないのかもしれない
でも世界規模でみれば何処かで自分という存在は誰かの為に存在して、誰かの心を支えているかもしれない。
そう考えると胸の中にふつふつと熱いものが込み上げて来るのがわかります。

こんな自分であっても誰かの人生を大きく変える存在になれるんだ。誰かの心を揺さぶる事が出来るのだ。
その熱い気持という物が生きていく上で非常に重要な物となるんだろうなと思うのです。

多くの人に聞きます。自分はどれだけの人間ですか?

再び貴方に問いたいと思います。


貴方はこの記事を見たあとどう答えるでしょうか?
コメントで教えてくれる必要はありません。
ただ貴方の心の中で答えを出して見て下さい…。


その答えが貴方の本当の価値なんです
貴方が存在しているという事なのです…

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