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ただひたすら自分の世界を生きる

ひたすら自分の世界に没頭していると周りを見る事が無くなる。これは即ち外的な物に反応しなくなるって事です。
そんなに自分の中に閉じこもって、それじゃあ駄目だ、外に目を向けて生きなさいと言われる。
まぁ確かにそうだとは思う、時には外側に目を向けて見渡して生きたほうが良い時もある。でもそれ以上に自分の世界も大事だと思う。

人が世の中にいれば無数の生き方や価値観がある。
人は皆自分の生きていくマイルールを持っているのだと思う。人は20代中盤辺り位から自分の価値観を人が変える事は難しいと聞いた事がある。いくらアドバイスをしても、その人をまるっきり変えようとしても結局本人が変えようとしなければ変わらない。人は変化の生き物だけど、結局は自分次第なんだな。

でも僕は思うんだけど世の中の常識を作った偉い人は、大衆に向けてその常識を作った様に見せて、実は自分の価値観で常識を作ったに過ぎない。自分の持つパーソナルカラーがあってその好み通りに服を選ぶように、世の中の全ての人にそれがフィットするわけではない。似合わない色だって好みじゃない色だって当たり前に存在している。
それを常識という色に染まらないといけないというのは、自分の色を無理やり他の色に変えないといけない、もしくは自分の色に余計な色を足さないといけないということになるのだろうか…。なんかすっごい嫌だなぁ。

結婚や恋愛観等でもそうだけど、前に書いたLBGTの記事の様に同性愛というのが異常性癖だと捉えられるケースが多くて、産まれながら持って来た本来の愛の形という物を目の前でぐしゃぐしゃに割られて踏み潰されてしまう。それが正しい筈なのに常識や普通の価値観というマジョリティによって取り上げられてしまう。
自分よりも歳が離れた恋愛や結婚もそうだ、本人達が幸せである事が先ず前提であって、他人がどうこうしゃしゃる問題ではないと僕は思う。

世の中だいぶ多様性が認められつつあるけれど、まだまだ表面的な部分でしかない。ならいっそのこともうこれは自分自身の問題であって、他人は介入できない領域の問題なのだと認めるというか、自分たちの幸せを最優先して生きていけば良い。他人は他人を変える事は出来ないし、口を出しても責任までは負うかもわからない。色を変えろと要求してもその後どんな色に染まっていようが他人からすればどうでもいい時もある。

自分がマイノリティーだと気がついたならばそれ以上に強く生きればいいと思う。強く生きるとは自分を信じる、自分の持つ感性を愛する、誇りに思う。そして人生の中で理解してくれる人に出会ったら一生懸命愛してリスペクトをする。それはマイノリティーを経験した人間にしかわからない。そしてそういう経験をした人間の持つ強さである。


ただひたすら自分の世界に生きても、ただ我がままに、好き勝手に人の領域を荒らして、自分はこういう生き方なんだと主張するのは違うんだけどね。あくまで自分の幸せに没頭するというか、自分の幸せを最優先に願う。僕はそういう生き方をして欲しいし、その先の未来がきっと明るい物になれるように願っている。


それがあるがままに生きるに繋がって、真我と繋がる。真我と繋がる事は即ち神と繋がるという事。肉体があり魂がある、それを理解出来て、自分は世界で一人しかいない素晴らしい存在であると思ってもらえる生き方をして欲しい。


自分は駄目だと信じればその先は駄目な道が出来て
自分は素晴らしいと思えば素晴らしい道が出来る。

ということは自分を愛して許容してあげれば、その先の未来は自分を許せる愛の道が繋がっていく。


そしてその人がこうだと決めた道は誰一人として壊す事が出来ない。人は誰も指図できない。最終的に壊してしまうのは全て自分自身だと言うことです。


どんどん真我を信じて繋がりましょう。
どんどん自分素直になりましょう。
そしてマイノリティーであるならば自分は特別で素晴らしいと喜びましょう。


それがあるがままに生きるという答えなのかな?と思います!

なんかいい響きですね!「あるがままに生きる」

それを目標に生きてみては如何でしょうか?

それではまた👋👋👋👋👋

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