Rien n'a encore commencé まだ何も始まっていない

 ドアの前に立つと少しばかり緊張する、ノックの代わりに声をかけて中に入ると彼女が床に座って、いや、妙な格好で座り込んでいた。
 ベッドから起き上がろうとして転けたのだ、さっきの物音は、これか、私は近寄ると手を差し出した。
 こんなことで緊張するなんてと思う、今まで女性に触れたことがないわけではない。
 だが、彼女は歌姫、クリスティーナではないのだ。
「痛むかい」
 ベッドに座らせて右の足首を確認する、あの三人に怪我、いや、痛めつけられていたが、折れていないのが幸いだ。
 「少しでも歩こうと思って」
 「ゆっくりでいい、少し散歩しようか」
 
 湖のそばを歩きながら、彼女が歩く様子を見守った。
 少しずつだが良くなっていることにほっとした。 
 
 「オペラを観たことはあるかい」
 「いいえ」
 「よければ今度、どうだろう」
 返事はない、ただ驚いたように私を見るが、ゆっくりと首を振った。
 だが、予想していた通りなので驚くことはしなかった。
 自分は、ここにいるという、だから、買ってあるんだと言葉を続けた、断る理由なんてないとわかってほしい為だ。
 私が助けたことに彼女は恩を感じている、食事、着替え、それは私のシャツだが、支払う金がないということに対してひどく引け目を感じているのだ。
 これがフランス女ならどうだろうか、それだけの価値が自分にあるのだと思い、要求は   次第にエスカレートするだろう。
 色々な国を旅して人間を見てきたが、東洋の人間というのは初めてだ。 
 知りたいと思ってしまった、彼女のことを、だが今は体調を戻すことが先決だ。
 阿片だけではない、
 あの三人は彼女の体、足を痛めつけていたのだ。
 自由に動けない、歩いて逃げないようにしようとしたのか。
 以前、ペルシャにいた頃、檻に閉じ込めてペットのように飼い慣らす金持ちの話を思い出した。
 パリでも、だ。
 
 少しは僕の事を考えてほしいと思わず言葉にしてしまいそうになるのをラウル・シャニュイが我慢したのは、その日が久しぶりのデートだったからだ。
 だが、彼女の話す内容は舞台の事ばかりだった、内心がっくりしてしまう、だが、彼は口には出さず、表情にも出さなかった。
 少し前まで外国の劇団を呼び寄せて公演するという話があった。
 だが、話は立ち消えとなり、代わりに海外のプリマを呼ぶという話が支配人達の間で持ち上がったらしい。
 決して珍しくはない話だが、誰が来るのだろうと思ってラウルは尋ねた、だが、名前を聞いて驚いた。
 アイリーナ・アドラーの名前を聞くことになるとは思ってもみなかったからだ。
 ドイツの歌姫、いや、歌だけではない、女優としての演技にも定評があるようで海外でも人気の高いプリマドンナだが、人気の秘密はそれだけではない。
 彼女は有名人、著名人とも親しいのだ。
 だが、今まで巴里で公演したことは一度もない筈だ、理由はわからない。巴里のオペラ座で歌うなんて。
 
 
 「お電話です」
 鏡の前で化粧をしていた美女は思わず手を止めた、あと少しで舞台の幕が上がる、こんな時に電話など取り次ぐ必要なんてないのに。
 自分の世話をするようになった、このメイドはまだ半年だ、仕方ないと思いながらだいと尋ねた、誰かしらと。
 「それが、○○○と仰って」
 美女は振り返った、その表情に驚いたのはメイドの方だ。
 今まで、いや、こんな表情を見るのは初めてだった。
 
 数日前、ナーディル・カーンから手紙が来た。
 大事な話がある、今すぐに会いたいと。
 手紙に話しの内容は書かれていない、だが会わなければ強引にやって来るかもしれないと思って外で会うことを提案した。
 
 決して治安が良いとはいえないスクリブ通りから近い通りにある店は密会をするにはいい場所だ。
 警察でさえ立ち入る事をしないのは暗黙の了解というものがあるからだ。
 部屋に入るとナーディルは先に来ていた、待たせたねと声をかけたが、返事はない、機嫌が悪いというよりは考えこんでいるといった様子だった。 
 「エリック、あれは君の仕業か」
 突きつけられた新聞を見た仮面の男は小さな記事だなと呟いた。
 三人の浮浪者がノートルダム寺院の近くで発見されたというものだ。
 浮浪者が殺されたなど珍しいものではない。
 先日も協会の近くで追い剥ぎがと切り出したが、仮面の男味の言葉をエリックと一喝した。 
 金を出せばなんでもやる人間だ、だが、それを聞いても動じる様子はない。
 「そんな連中は世界中にいくらでもいるよ、ナーディル、何をそんなに怒っているんだ」
 笑いを含んだ声だ、それが反対に不安を煽ったのかもしれない。
 「あの三人は金を貰って色々とやっていたようだ、依頼人は金のある人間で中には貴族もいたのではないかと警察内で」
 最後まで言葉が続かなかったのはテーブルにカップを置く音が大きかったからだ。
 「貴族だと、まさか」
 「詳しい事は、まだ分かっていない、警察が調べようにも、わかるだろう、オペラ座の支援者の中に」
 男は軽く手を振った、それで会いたいと言ってきたのか、面倒なことだと思いながらも、わかったと小さく頷いた。 
 
 「それで君は忠告をというわけか」
  

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