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インドネシアで特異な場所となったバリ島

バリ島に4回も来ているのに、なぜここだけ島全土でヒンドゥー教や建物の文化的な様式が残っているのかの歴史を振り返ったことがなかったんだけど、

イスラム王国は、ジャワ島の北と西側中心

オランダの植民地化に、バリ島全土の王国が徹底抗戦し、虐殺した国際世論の裏返し

という400年ぐらいの流れなんだなとようやく理解しました。

記事抜粋

16世紀

マジャパヒト王国がイスラム勢力により衰退すると、王国の貴族、僧侶、工芸師などがバリ島に逃げてくる。
その事により、ジャワヒンドゥー教の影響が強い現在のバリ・ヒンドゥー文化が確立する。
また、その結果ゲルゲル王朝は他の島から影響を受けないバリ島独自の王国となる。
このころ、ジャワより高僧ダン・ヒャン・ニラハタがバリ島を訪れ、タナロット寺院やウルワツ寺院などを建立する。

Wikipediaより
マジャパヒト王国 (1293–1500)イスラーム王朝の勃興マラッカ王国 (1400–1511)ドゥマク王国 (1475–1518)アチェ王国 (1496–1903)バンテン王国 (1526–1813)パジャン王国英語版) (1568年-1586)マタラム王国 (1500年代-1700年代)
1404年から1406年にかけて、マジャパヒトの宮廷は東王宮と西王宮に別れ内戦になった(パルグルグ戦争インドネシア語版))。中国王朝は15世紀前半鄭和艦隊を7回にわたって南海に派遣し、ジャワのマジャパヒト王国にも来航し、内戦に巻込まれた。鄭和艦隊の保護下にマラッカ王国が成立すると、南海貿易の中心はマラッカに移り、マジャパヒト王国はこの趨勢を食い止めることができなかった。

15世紀以降はイスラム教が浸透して、マラッカ王国がイスラム化したのを始め、マタラム王国がジャワ北岸のトゥバン、グレシク英語版)などにもイスラム教国が成立する。

マジャパヒト王国でもクルタウィジャヤインドネシア語版)が、息子のブラウィジャヤ5世インドネシア語版)(シンバ・ウィクラマワルダナ)の妃にチャンパ王国からムスリムの公主を迎え、内政でもイスラームへの改宗を容認した。

ブラウィジャヤ5世の息子ラデン・パタハインドネシア語版)がドゥマク王国を建国し、サムドラ・パサイ王国と友好関係を築き、ワリ・サンガによるイスラム教布教によって急速に国力を増大した。1478年、ドゥマク王国はマジャパヒト王国のブラウィジャヤ5世に宗主権を認めさせた。

ププタン(Puputan)とは

ププタンとはバリ語の「終焉(Puput)」を語源とする「血の最後の一滴まで、敵に対して抵抗すること」と言われている。
オランダ軍がバリ島を植民地化するために、各王国を攻撃した際、圧倒的武力差があるなか、いくつかのバリ島王族は降伏を選ばず、このププタンを選んだ。

銃器を持った多くのオランダ軍に囲まれた王族たちは、王族ゆかりの寺院で神への祈りをすますと、王宮(プリ)に火をはなった。
老人や病人はクリス(聖剣)で自害したと聞く。
燃え盛る王宮を後に、綺麗に着飾った王はみこしに乗り、ガムランの音が鳴り響く中、王宮の門からオランダ軍の前に行進を行う。
その後には、重臣や婦女子たちが続いて行った。
制止の命令を全く聞かず近づいてくる行軍に恐怖を覚えたオランダ軍は、銃弾を行進する王たちに浴びせた。
次々と倒れる人々を乗り越え、さらに行進は続き、オランダ軍の銃弾は行進に参加したすべての人々が倒れるまで続いた。この惨劇を「ププタン=死の行進」と人々は伝えた。

ブレレン王国、バドゥン王国、クルンクン王国の王族たちは、このププタンにより全員殉死し、オランダ軍はバリ島全土を支配下に置いた。
しかし、無抵抗な王たちを圧倒的な武力で皆殺しにしたオランダ軍の行為は世界的に非難を浴び、オランダはバリ島を植民地化したにもかかわらず、バリ島の伝統文化を保全する政策を取ることになった。

デンパサールにあるププタン広場はバドゥン王国のププタンの現場であり、記念碑が建っている。
また、クルンクンのスマラプラ宮殿横には、クルンクン王国のププタン記念碑があり、内部にはププタンの様子が描かれたジオラマがあり、現地を訪れた際はぜひ立ち寄って頂きたい。

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