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巨匠然としたエログロがポール・バーホーベンの新境地。『ベネデッタ』

ポール・バーホーベン健在。しかも、彼らしからぬ巨匠然とした風格さえ漂わせるようになった。これが率直な印象だ。

近世イタリアの埃っぽくくすんだ街並みは、どことなくパゾリーニっぽいヴィンテージだが垢抜けていて、灯りを落とした室内の暗さを含め、現代的でスタイリッシュに感じられる(撮影技術の進歩によるのか?)。シークエンスは決してせかせかしておらず、静的なのだが、どのシーンも無駄がなく、つなぎに一定の推進力があって飽きない。

もちろん、持ち味のエグさや下品さは、今作でもピリッと効いている。なにはともあれ、スカトロジーは最大限、尊重される。それは人権の尊重と同等に、自由を愛するバーホーベンの倫理なのだ。冒頭でさっそく鳥の糞が顔を直撃する。修道女ベネデッタが、便意を催した新入りのバルトロメアをトイレに案内するシーンでは、隣り合って連れ便。しかも排泄の音を的確に再現する。さすがだね。

または、臨月らしき教皇大使夫人が、ニヤニヤしながら張った乳房から母乳を飛ばす。『トータル・リコール』の「三つの乳房」よりも控えめで、奥ゆかしい描写だけど。ベネデッタとバルトロメアは、キリストの木像を削って作ったディルドで行為に及ぶ。いかにもリミッターの外れた斬新なアイデアだが、これ自体はどうも史実に基づいているらしい。すげえな。

エログロ以外では、当然のように銭金ネタ。シャーロット・ランプリング扮する修道院長が、幼いベネデッタを預かる際、納入金が足りないと父親を問い詰める。

ほんと、そんなんばっか。プロモーションでアピールされているレズビアン要素はもはや大したことない感じ。人間のダークサイドをちりばめる手際は、律儀と言ってもいい。そういうディテールに終始苦笑しっぱなしになるわけだが、とはいえ、それはあくまでディテールであって、コアではない。本筋は、宗教的権威、男性優位社会への反逆である。しかも正義漢ぶって抵抗するのではなく、あざ笑うことでアンチを貫く。バーホーベンの表現者としての矜持はいささかも減じていない。

キリストを恋人として幻視するベネデッタが、精神疾患を患っているように見えるのが、きわめて批評的だ。現代の精神医学の観点では、宗教的啓示を精神疾患の一症状と解釈できるのは言うまでもない。ベネデッタにキリストが憑依し、野太い男の声がアフレコされてアゲアゲで説教するところは最高にイカれている。キリストの「復活」にちなんで、特にこれといった要因も説明もオミットされたまま、死んだベネデッタがあっさり生き返る強引さが痛快だ。そもそも、ベネデッタが幻視するキリストは、剣でガンガン殺生する冷徹な騎士として登場する。マジでおちょくってるよね。

ベネデッタが聖痕を受ける一連のエピソードは、バーホーベンの真骨頂だ。寝ているうちに聖痕が自然にできるわけがないとの修道院長の疑いは、おそらく正しい。しかしながら、作中で伝説として引き合いに出されるアッシジの聖フランチェスコの聖痕でさえ、科学的に検証できたとしたら、結果はどうだろう。実際、聖痕の歴史においては、自傷行為による捏造のケースもあったそうだ。本作では、ベネデッタの聖痕が自作自演なのかどうかは曖昧だが、おそらく意図的にそう見せていて、そこは『氷の微笑』を想起させる。観客をけむに巻くバーホーベン印である。

物語の後半で、ペスト騒動をCOVID‑19のパンデミック、民衆の暴動をアメリカ連邦議会襲撃事件と重ね合わせているのは間違いないだろう。権威に反撃する民衆側をいわば集団ヒステリーとして描くので、市民革命のようなカタルシスはほとんどない。スナイパーのような身のこなしで一突きにするお前、町の住人だろ? いったい何者? と吹き出してしまう。

修道院長にのし上がったベネデッタは、前修道院長に復讐を仕掛けられるが、それはもはや蚊が刺したようなもの。敗北寸前の前修道院長にベネデッタは何を耳打ちしたのか? それも具体的には明らかにされないが、おそらくは、前修道院長を「けしかけた」のだろう。火刑の炎は、さまざまなメタファーが見え隠れする、本作の重要な要素である。誰が焼かれるのかは、観てのお楽しみということで。宗教的なエクスタシーと科学的合理性に基づく行動が図らずも融合するようなシーンの造形は圧巻だ。ある種のライバル関係にあったこの二人が、最後はともに町の救世主となった、というのが僕の理解である。

ベネデッタとバルトロメアがガンガン脱ぐところは『ショーガール』と共通するバーホーベンのお約束ではあるが、エロというよりも、ヒッピー的というかアナーキズムがにじむ類いのものだ。本作では、そんなヌーディストぶりを経て、ベネデッタは再び服を着込み、聖の世界に戻る。

結局のところ、ベネデッタは聖女なのか魔女なのか。はたまたカリスマなのかトリックスターなのか。それは観る者の解釈に委ねられる。とはいえ、数多あるジャンヌ・ダルクの映画のように、ヒロインとして肩入れしたくなる観客は少ないだろう。というか、本作には感情移入できる登場人物がろくにいない。価値判断を徹底的に宙づりにする作りは、バーホーベンのブレない軸を端的に示している。今回も唸るほかないのだ。

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