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【小説】 ふつうについて

手紙を書こうと思います。手紙というものは、恋人とかお母さんとか子どもとか、大事な誰かに充てて書くものだと知ってはいるけど、わたしは特に手紙を書きたいと思う相手がいないので、これは自分に向けて書いている手紙です。変でしょう。おかしいでしょう。自分を分裂させてものごとを考えるのは頭がおかしくなりそうな作業です。だけどそもそもこんなことを考える時点で普通ではないので、遅かれ早かれおかしな人はいずれおかしくなるのが運命だと思うのです。小説に銃が出てきたらそれは必ず発砲されなければならない。そうだとすれば、おかしさを持って生まれた人間は必ずおかしくなる帰結を迎えるものだと思うのです。

小説を書こうとしていて気付いたのは、わたしには物語は作れないということです。実際にわたしは物語を作るということに興味をもったことがありません。わたしが好きなのはあくまで、物語を最小化した先にある文章一つ、比喩一つであり、物語全体のあらすじなどにははなから関心がなかったのです。
小説を書こうとする前のわたしは、作家という人達はいかにも繊細で考えすぎで小賢しく、まさに自分のような人間こそ適性があると妄信していたこともありました。文章を書くに至るその経緯に運命さえ感じたりしましたが、よくよく考えてみると、ドラえもんの映画でのび太に降りかかる災難に耐えられず映画館から飛び出すほど繊細なわたしにとって、物語を作るために登場人物を悲劇に陥れる非道な行為は受け入れがたく、自分の体重よりも重荷に感じられるものでした。

それでもわたしには数少ない長所があります。それは考えることです。そしてその考えによって、小説では何をやってもよいのだという真理に比較的早い段階で到達することができました。そう、なにをやってもよいのです。わたしは、わたしの作る小説の中で、小説を書かないことだってできるのです。何を言っているのかわからないと思われるかもしれませんが、実際に多くの小説は小説の形をしていないものです。例えば日記。あるいは手紙。手記。夏目漱石、太宰治、村上春樹。だからわたしは手紙を書きます。わたしは私に向けて手紙を書こうと思います。これがいつか文学の形をした何かになると信じて。

今まで誰にも言ったことがないのですが、わたしは耳で聞いた言葉を音声のまま理解することができません。会話もしょっちゅうついていけなくなるし、そういうときはきまって机の傷とかパソコンのコードの絡まりを見つめて気を紛らわせ、黙って話が終わるのを待ちます。学校でも授業を聞けたことはほとんどなくて、毎回催眠術にかかったように寝ていました。大海原に漕ぎ出す船のように眠っていました。

それでもわたしがずばぬけた賢さを発揮して、なんならその能力だけを唯一の拠所として日々の暮らしを成立させてこれたのは、文章を読むことで補ってきたからです。文字を見ながらであれば、わたしは何とか話についていけます。本をものすごい勢いで読みます。助詞のひとつひとつを熟読することもできます。だから適当な資料もなくだらだらと会話だけで進められる会社の打ち合わせは半分も理解できていないのですが、そう考えてみると今のわたしがいささか孤独に暮らし、こうして形にならない文章を書いているのは、やはり何かの必然であるようにも思います。

わたしは最近ふつうについて考えます。それは主に自分はふつうであるのか、ふつうでないのかということです。それから、私が関わるべき人、それは恋愛として関わるべき人のことを想定していることが多いのですが、その人はふつうであるべきか、ふつうでない方がよいのかということです。

昔からわたしには、自分がふつうでいられる場所はほとんどありませんでした。小学生のころから勉強ばかりしていた私は、学校の授業を何も聞く必要がなかったし、テストも作文も規格外の速さで終わるし、それと引き換えに運動はまるでできないし、とにかく学校は自分には適合していない、不適合という言葉だけが唯一しっくりくる、そんな場所でした。飛び級ができないというのは困ったものです。私のような子どもはどっちみち親しい人など簡単にできないでしょうから、人間が無理ならせめて環境にだけは適合させてあげたほうが子供にとっては良いのではないかと、大人になった今となっては思うのです。

この世界が自分の居場所ではないという実感を持ちながら生きることは悲しいものです。この悲しさをすべての人が持ち合わせているものなのか、わたしだけが持ち合わせているものなのか、ほんとうの意味で確認することはできません。感情を数値化する研究が進んでいないのはなぜなのか。わたしはこれは怠惰だと思います。本気を出していないだけだと思うのです。あるいは宗教的なタブーなのかもしれません。頑張ればできることなのに、やっていないということです。大抵の人間はそこで文学に救いを求めたりするものですが、私は生物学を勉強しようと思いました。生物について分解して分解して数値化すればいいんじゃないかと考えました。それは実際に賢い選択だったと思います。わたしは当時の自分の選択をとても気に入っています。

話が逸れましたが、わたしはふつうとは何かということをよく考えています。人間はみな、ふつうでしか居られないのだと思います。ある日、この人こそ特別だと思って誰かに恋に落ちることがあるかもしれませんが、自分と異なる世界が一瞬交流しただけで、大抵その人はその属する世界においてふつうなのです。異なる世界は完全に交わることなどありえません。だから自分が特別だとか、この人は特別だという感覚は幻想にすぎないし、だけどそうだとしたらわたしのこの説明できない悲しさも特別ではないことになって、いよいよ説明がつきません。

わたしは今のところ文章を書くことによってのみ、この悲しさから解放されている気がしています。めちゃくちゃな文体で支離滅裂なことを言っているときが一番楽しい。それなのに初めて手に入れた自由さの中で、もっとおもしろいことをやってみろと追い立てられ急かされている気もする。そして自分はふつうではないと思うほど、結局のところなにをやってもふつうにしかなれない気がしています。そういえば私は創造物と向き合う仕事をしていて、創造物は完全な無から生まれることはほとんどなくて、だいたい既存のものごとの少しの焼き直しであったことを思い出します。今自分がやっていることのすべてが模倣である気もするし、もっと変で痛々しいものであるようにも感じています。

わたしに関してアドバンテージがあるとすれば、わたしはもう自分の賢さを証明する必要がないということです。すでに生活を成立させているわたしは、今の自由な取り組みについて誰かに認めてもらう必要がないということです。これは想像以上に贅沢なことです。わたしは辻褄の合わない意味不明なことを言い続けることができるし、中身のない冗長な文章を永遠に書き続けることもできる。そもそも辻褄や簡潔性などどうでもいいことなのです。そんなものは後から直せば良いし、わたしはそれを仕事にしていたこともあるからよく知っているのだけど、結局のところ誰にでもできる作業なのです。

いつも大抵2000文字くらいを書いたところで時間が切れます。中途半端で完結していない文章を翌日に読み返して汚物を見たような気持ちになって、続きを書く気がなくなります。昼休みに小説をちょっと読んで、午後の仕事の最初の何分間でこういう文章を思いついて、それから一日仕事して、夜になって書きもののようなことをしていると、だんだん昼間のひらめきは薄まっていって、終わって寝て朝になって、書いたものが汚物に変わっています。食べて活動して排泄して。人間の営みそのもののようです。小説を書くとは職業ではなく生き様なのだと誰かが言っていたことを思い出したけど、こういう文脈ではなかったように思います。とにかく曲りなりにも形にしたいのなら、夜のうちに書き終えて夜のうちに投稿してしまうのが良いようです。別に投稿しなくてもよいのだけれど。でも形にならないおかしなものから生まれるものの方が、型にはまって作られたものよりもすてきな気がしませんか。わたしはいまのところそう思っています。

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