見出し画像

【小説】 春の砂嵐

彼は左利きで両方の腕に時計を着けていた。そのときわたしが彼について知っていたことは、そのふたつだけだった。右腕の時計は午後8時45分―それは私たちがいる日本の現在時刻だと思われる時間だった―を指し、左腕の時計は午前あるいは午後の12時過ぎを指していた。

文字盤もベルトも黒くて、着ているパーカーもズボンも黒くて、まぶたの上のぎりぎりまでかかった前髪も眼の奥まで黒いから、彼はとりつくしまが無く完結しているように見える。どうして時計をふたつ付けているの、そんな疑問を愚直に解決しようとしている自分がとんでもなく野暮な人間である気がして、代わりにわたしは彼の左腕を指差して「それはなんの時間なの?」と聞いた。

「ストックホルムの時間だよ」と時計を触りながら恥ずかしそうに答える彼は、うそをついているから居心地が悪いのか、腕時計を二つ着ける人間が普通ではないことを自覚しているのか、もっとなにか別の理由があるのか、わたしには判別がつかなかった。時計には秒針がなくて、動いているのか止まっているのかさえ分からなかった。

どうしてストックホルムなの。どうしてストックホルムの時間を持ち歩く必要があるの。色んなことを尋ねたかったけど、わたしは「あなたは右利き?左利き?」と聞いた。左利きだと彼は答えた。

どうして利き手がストックホルムなの。そう聞こうとしたとき、彼は急にわたしの手首をつかんで「本当はいま何時?」と、顔を近づけながらわたしの腕時計を覗きこんだ。午後9時23分だった。すなわち、彼の時計の少なくとも一つはでたらめだった。そしてこれは後になって判明したことだけど、2つもある彼の腕時計は、ひとつだって正確なものはなかった。ひとつも正確ではなかったにも関わらず、彼は柔らかく笑ってみせた。それは風のない晴れた日の昼間、たとえば春に、桜のはなびらがひとつ、枝からはらりと外れ落ちる、そんな柔らかさだったので、わたしは連られて笑ってしまった。

「何も合ってないね」と彼は言った。
それか「全然ちがうね」だったかもしれない。
そのときのことをわたしはうまく思い出せない。思い出す必要もないのかもしれない。結局のところ「実家のねこが死んだ」とか、そんな言葉であっても関係なかったのだと思う。ただ、恋に落ちるってこういうことなんだ、と思った。いつ、なにが、どうして、どうやって、何も説明できないのに、ただそういうものだと分かった。そう自覚したときにはもう、彼が纏っていた春の空気は、地面の砂を下から巻き上げる突風となり、意思に反してわたしのまつ毛や爪の奥、下着の中や、かばんの奥底とか、なかなか取れないところに侵入して忘れたころにジャリっと顔を出してくる、あの微小な異物としてわたしの中に長い間滞在しつづけた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?