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『コンヴィヴィアリティのための道具』を読んで。改めて健康を考える。

前回で『コンヴィヴィアリティのための道具』の中身の整理をおこなった。その内容としては「その人らしさ」を尊重するための、「道具」の使い方という結論に落ち着いた。今回はそれを踏まえて健康について考えていく。

前回の本の整理をした記事はこちら

健康の分水嶺

この本には分水嶺という言葉が数多く使われており、2つの分水嶺がある。
第一の分水嶺は問題解決のための道具として使われたこと
第二の分水嶺はシステムの暴走や目的がすり替わったということ
と認識すれば問題ない。

さて、著者イリイチのいう、第一の分水嶺は病気の克服、乳児死亡率の低下などであり、第二の分水嶺は治療による副作用などの病気や、生かされるただたんの延命治療、そして医療の囲い込みを指摘している。

特に第二の分水嶺について考察していく。まず、治療による副作用においてであるが、これはまず治療による作用を考えなければいけない。病気があり、それを治すための治療があるわけだ。ここで、病気というものがあまりにも広義的に理解されていくというのがある。何にでも薬を処方してしまい、さらにそれにより副作用が生じた、つまり過剰の医療の介入による悪影響をしていると考えられる。

続いて、生かされる延命治療について。これに関しては感覚的にわかるだろう。だがこれにはあるバックグラウンドに関係していると思う。それは「働き手」ということだ。つまり、「仕事をさせられるために生かされる」ということである。それは資本主義との結びがとても強いものであろう。イリイチは仕事のために生かされる、奴隷としての医療を批判していると考えられる。

最後に、医療の囲い込みである。これに関しては、今一番議論をしなければいけない点であろう。というのも、当時は医療機関しか医療を扱わず、一般人のセルフメディケーションの低下がもたらされ、専門化によるより強い囲い込みが懸念されていたと思う。しかし今現在医療の囲い込みは、少し事情が変わった。というのも、誰もが健康を語るようになったのである。大きな医療機関から、個人の病院の先生、ヨガの先生、パーソナルトレーナー、誰でも語るようになった。また、大衆も病院への依存ではなくなった。それぞれの健康法を選び、それをルーティンにした。健康はむしろ、セルフメディケーションがメインとなったのである。しかしそれは本当に喜ばしいことなのだろうか。

健康の多様化と第二の分水嶺

イリイチの、医療の囲い込みに関しては予想が外れたと言っていい。おそらくイリイチは、なんでもデータ化され、食事が定常化されたディストピアのようなものが広がっていくと想像しただろう。健康というものは医療だけの話でしか語ることができない、閉じられた世界になると。

しかしそうはならなかった。代わりに、健康の代弁者が乱立した。それに関しては前述の通りである。誰もが健康を語り、思い思いの健康を目指すようになった。しかし、ここに大きな問題がある。『コンヴィヴィアリティのための道具』から一文を引用する。

人々はよりよい教育、よりよい健康、よりよい輸送、よりよい娯楽、そしてよりよい栄養さえも手にいれる。ただしそれは、専門家が設定した目標を「よりよい」ということの尺度と思いこむ場合にかぎっての話だ。

まず、この文の背景を説明するとこれは管理社会(共産主義であろうと資本主義であろうと)においても、大衆に対して大きなメリットを与えているように見えるということである。それは制度を作った側の指標であり、決して私たちの尺度ではない、と指摘した点にある。

しかし私は、健康に限ってはかなり複雑化していると思われる。というのも、その指標が乱立したからだ。一応、日本には健康日本21という大きな指標がある。しかし実際、これに則した健康論者は少ない。というかみたことない人の方が多数であると思う。つまり、大きな管理をしている政府の設定した指標ではないところがたくさんできた、ということである。例えば、「今をより良く感じる」とか、「モデルのような体型に」だとか、「ボディビルダーのように」とか、「活性酸素を減らした」とか、「プロバイオティクス」だとかである。このような指標が乱立し、その乱立をもたらしたものの多くは、「人の健康」という第一分水嶺から「金儲けと崇拝」の第二分水嶺に移り変わった。健康論者は信者を集め、まさに大きなメリットを与えているように見せかけたのだ。

先に言っておくと、健康論者や信者が健康であるならまだいい。だが、そこに資本主義的な搾取と、その健康法によってより不健康になる(イリイチの言う医療の副作用に属する)ということがあるのが問題である。つまり、手法の問題ではなく、構造的な問題がある、ということだ。

健康の無知と根本的独占

まずは根本的独占について少し説明する。本から説明を引用すると

「根元的独占」という言葉で私が意味するものは、ある銘柄が支配的になることではなく、あるタイプの製品が支配的になることである。ひとつの産業の生産過程がさしせまった必要をみたす行為に対して排他的な支配を及ぼし、産業的でない活動を競争から締めだすとき、私はそれを根元的独占と呼ぶ。車はこのようにして交通を独占する力をもっている。

 つまり、デフォルトの設定になってしまうことである。例えば飲み物を飲むと言ったら昔は川でも井戸でもなんでもあったが、今はもっぱらペットボトルに入った水、もしくはジュースという商品であろう。このように、人々のデフォルトが産業的に支配されてしまうのが根本的独占である。

さて、健康における根本的独占はもちろん行われている。健康業界全体である。それはつまり、金をかけなければ健康になれないことを意味している。私はパーソナルトレーナーでもあるが、この活動を行う時には葛藤があった。「健康を届けるだけなのに、金を取らないといけないのか」ということである。今もこの疑問は拭えていない。むしろ、お金をいただきながら「誰もが当たり前のように健康になれる仕組み」を模索している。

話がそれた。現代社会というのはそこまで運動をしなくても仕事ができるようになった。走らなくても郵便は車が運び、重いものは持たなくても重機が運んでくれる。それどころか私は今指しか動かさずこの文章を打っている。現代社会というものは、生物的にはエネルギー過剰であり、健康を維持するには意図して動かなければならない。

だが、大衆はいつからか健康に関する知識を失った。テレビでは「家庭の医学」とか「健康野菜」なんて言っても実際健康には悩む。これはイリイチの言う、専門性が増した事による囲い込みの一つといってもいいだろう。社会的なシステムがそうしたのか、大衆が選んだのかはわからないが大衆は自分で健康の管理ができなくなった。

つまり、依存体制ができた、ということである。つまり、健康業界という根本的独占への依存である。

まとめ

私は指標をまとめる作業を行っている。「physical health」、「mental health」、「happiness」、「well-being」といった健康の位置づけを整理している。わからない人はぜひ私の拙著を読んでみてほしい。それは「都合のいい指標」を、白日のもとに晒すためである。そうすることで、健康市場の犠牲者を一人でも減らしたい。構造的な改革を起こしたいと思う。

それは同時に根本的独占を崩す足がかりとなる。まずは健康を望んだ人が、健康になれること。そして健康になれるということは需要が減り、健康市場が縮小、産業的活動から「コモン」への転換になる。

「コンヴィヴィアリティのための健康」を目指して。

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