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『コンヴィヴィアリティのための道具』を読んで。内容の整理。

友人の紹介でこの本に手を出した。私の本の読み方は、読み進めながら気になったところに付箋をべたべた貼って、のちにその箇所をメモし感想をまとめるのだが今回は付箋の量もメモの量も半端ではなく、一度きちんと文字に起こしてきちんとまとめるべきだと思い、この文章を書くことにした。先に言っておくと、この文章はとても読みにくい。後に説明する三つの事象があるのだがそれに対する文章が点在しており把握しにくい。また、それぞれの事象においての意見がその点在したパーツを寄せ集めてなんとか理解できるようなものであった。この文章はその寄せ集めを整理したものである。

そのため、人に見せるというより自分の脳内の整理であることをご了承願いたい。

本の概略と主張

まずはこの本を簡単に説明する。

この本はまず、3つの事象について取り上げられている。それは

医療 教育 交通

についてである。特にこの本は著者イリイチが過去3つの本に対しての総括である、と訳者後書きに記述がある。よって、この本を読むときはそれぞれの事象というより、そのもの自体に共通する「道具」というものの見方について考えるべきである。しかしどの点においてもその指摘は鋭く、私はその事象自体にもたくさんの付箋を貼ってしまった。全く無視するのも勿体無いので下で議論したいと思う。

コンヴィヴィアリティとは

まずはタイトルの中のひとつ、コンヴィヴィアリティについて考える。この本では、自立共生という文字にコンヴィヴィアリティというルビがふってあり、引用では自立共生と示す。なお、著者はあとがきで「この邦訳が正しいかの議論はイリイチ学の人間に任せる」と言っており、完全な訳かはわからない。そのため、ここではざっくりとその意味を理解したい。

私は自立共生とは、人間的な相互依存のうちに実現された個的自由であり、またそのようなものとして固有の倫理的価値をなすものであると考える。私の信じるところでは、いかなる社会においても、自立共生が一定の水準以下に落ちこむにつれて、産業主義的生産性はどんなに増大したとしても、自身が社会成員間に生みだす欲求を有効にみたすことができなくなる。

本全体を読んだ感じであると、コンヴィヴィアリティは「その人らしさ」であると思う。つまり、「コンヴィヴィアリティのための道具」とは「その人らしさを増長させるための道具」についてであると考える。

道具の分水嶺

この本で大事な概念として、分水嶺がある。まずこの分水嶺というのがわからなかったので、コトバンクで調べていると

分水界になっている山の尾根。
転じて、物事がどうなっていくかが決まる分かれめ。

明らかに後者ではあるだろうが、分水界というのも気になったので調べてみた。

隣り合った流域の境界線。河川水は地表水と地下水とから涵養(かんよう)されるものであるから、地表面分水界と地下水流動系の分水界とが存在する。

どちらかというと上下層における水の分かれ目のようである。そうすると分水嶺の方の説明も納得できる。というのも後に説明するが流れがかわる、というより水の種類が変わる、というのが正しい気がする。原本を読んでいないので、訳者のうまい表現なのかもしれない。

さて、イリイチの分水嶺の話に戻す。イリイチは最初の分水嶺と第二の分水嶺という言葉に分けている。その部分を引用する。

最初の分水嶺では、新しい知識がはっきり指定された問題の解決に適用されたし、科学的な測定手段が新しい効率を説明するのに用いられた。しかし第二の分水嶺になると、それまでの達成によって立証された進歩が、価値のサービスという形をとった社会まるごとの搾取に対する理論的根拠として用いられる。その価値は、社会のたんなる一構成分子、つまり自分で自分を有資格化する専門職エリートのひとつによって決定されたえず改訂されるのだ。

最初の分水嶺に関しては、正しく「道具」を使えているといえる。本来の問題の解決のため、それはタイトル通り「コンヴィヴィアリティのための道具」なのであろう。
しかし第二の分水嶺においてはそうはいかない。「 社会まるごとの搾取」とまで言われている。物事を簡単に説明すると、これは資本主義全般であろう。というのも「価値のサービス」というものは明らかに商品を意味する。この本が出版されたのは1970年代であり、資本主義というものが最も加速した時代であろう。この時、あらゆる「道具」は「商品」へと成り代わり、本来の問題の解決というものを見失った。3つの事象への批判は、この「第二の分水嶺」が大きく関係し、さらに資本主義への結びつきの批判であると思われる。

デフォルト(初期設定)の批判

私たちの多くは生まれた時から資本主義社会であり、病院があり、医者がおり、道路があり、車があり、学校があり、教師がいた。

そして小学校、中学校は義務教育であり、病気になったら病院へ行く。移動手段は車から電車、飛行機までなんでもある。そのうち宇宙船も民間でできるのだろう。

イリイチはこれらの、我々の当たり前を批判している。今は「これらのことが本当に批判されるべきなのか」ではなく「なぜこれらの当たり前を批判するのか」に焦点を当てる。この三つがデフォルトであることへの批判であるため、同じ理由ではない。そのため、分けて説明する必要がある。

医療のデフォルト

次の文章に大方まとまってある。

1913年という年は、現代の医療の歴史でひとつの分水嶺をなしている。その年あたりから患者は、もちろんその時の医学によって認められた標準的な疾病のひとつにかかっている場合のことだが、医学校を卒業した医者から専門的な効果ある処置をうける機会が、50パーセントをこすようになった。それまでは、地域の病気と治療法に精通し患者から信頼されていた数多くの呪医や薬草を使う民間医が、つねに同等かあるいはそれ以上の治療効果をあげて来たのである。それ以来医学は、何が病気で何がその処置なのかということを定義し続けている。西欧化された公衆は、医学の進歩によって定義された効果的な医療を要求することをおぼえた。歴史上はじめて、医師は自分たちの能力を、自分たちがつくりだした尺度に照らして計ることができるようになった。この進歩は、古代では天罰と思われていたものの原因を新たに見直すことによってなされた。
(中略)皮肉なことに、手段が簡単になればなるほど、医師という専門職がますますその手段の適用の独占を主張するようになり、医療従事者がもっとも簡単な手段さえ合法的に使用することを許されるまでの訓練期間がますます長くなり、全社会成員がますます医師に依存するようになった。健康維持は美徳から一転して、科学の祭壇で専門的にとりおこなわれる儀式に変った。

最初は病気の克服のための医療の発展、第一の分水嶺についてであり、今まで医療の代わりにあったものが、科学的に治療として進歩したことを述べている。重要なのはここからだ。そこから医療は専門化し、多分化し、囲い込まれた。治療のためにはどんな簡単なことにも医者が必要になり、薬が必要になった。特に薬の処方にも誰か専門の人が立ち会わなければいけない状況は「手段が簡単になればなるほど」という一文に現れていると思う。もちろん、この点は十分に考えなければならないが問題はそこではない。専門以外の人間がその医療というものをまったくというほど無知になったことである。そのため、私たちは医療を専門に頼るというデフォルトが設定されたのである。

この専門性と囲い込みは資本主義に大きく貢献している。製薬会社が大きく成長し、医者が高給であることは、その一つではないだろうか。

また、このほかにも副作用による、治療による新病についても記載があった。もちろんそれは1970年代の話ではあるが、デフォルトとセットになると問題である。例えば、今新型コロナウイルスのワクチンの接種が進んでいるが、各国でワクチンの強制についてはデモが起きている。その理由は主に副作用であろう。もちろん、ワクチンはコロナの重症化率を下げる重要なものであるが、どうしても副作用がある。それは治療による新病の一つであろう。これに関しては場合によるとしか言えない。だが、強制される社会に関しては、第二の分水嶺を超えていく、という話になっていくだろう。

デフォルトの教育

続いて教育について。これには二つの視点がある。それはデフォルトで教育、特に学校を強制されるという視点と世間のデフォルトを教育されるという視点だ。もちろんどちらも批判している。まずは前者についてみてみよう。

この見かたによれば、教育は制度的な成長の最も価値ある産出物である。商品生産、おそらくエネルギー生産さえもが定常状態に移行することは、情報・教育・娯楽といった目に見えぬ商品の生産が爆発的に成長することの先触れであろう。この論法では教育の限界効用もまた低下するわけだが、このことは教育の生産に限界を設定する理由にはならない。幾人かのエコノミストはさらに先に進む。
(中略)学習が教育に変質したことは、人間の詩的能力、つまり世界に彼個人の意味を与える能力を麻痺させている。人間は自然を奪われ、彼自身ですることを奪われ、彼が学ぶように他人が計画したことではなく、自分の欲することを学びたいという彼の深い欲求を奪われるならば、ちょうどそのぶんだけ生気を失っていく。p138

後半の文章に注目する。これはおそらく、強制的な教育による、人間に元から存在する学ぶ能力を奪われる、ということであろう。比喩的には腹が減っていないのに飯を詰め込まれるような感覚なのだろう。さて、ここで難しいのはやはり基礎的な教育ができなければ現代ではまともに生きることができない、ということである。おそらく、これは第一の分水嶺であろう。学校というものが第二の分水嶺となったのは、おそらく強制力、そして内容の統一化であろう。個人というものがやはりなくなり、後に説明する産業の道具として使わせるということであろう。

さて、次に世間のデフォルトの教育についてみていく。

成長する諸産業の力学に対して人間の生命の平衡作用が抵抗するのをおさえつけるために、人間に対する操作がますます必要になる。操作は教育的、医療的、行政的な療法(セラピー)の形をとる。教育が競争しあう消費者を生みだし、医療は、消費者が要求するようになった工学化された環境のなかで彼らを生かし続ける。官僚制は、人々に無意味な仕事をさせるには社会的に管理する必要があることの表れである。

「人間の生命の平衡作用が抵抗する」、現代社会への批判を抑制するための「教育」であると批判である。つまり、現在の世界の流れはこれしかないのだと決めつけさせるための教育であるという批判である。

交通のデフォルト

一周したが、交通への批判への完全な理解はできなかった。そのため気になった文章の引用だけにとどめる。

「根元的独占」という言葉で私が意味するものは、ある銘柄が支配的になることではなく、あるタイプの製品が支配的になることである。ひとつの産業の生産過程がさしせまった必要をみたす行為に対して排他的な支配を及ぼし、産業的でない活動を競争から締めだすとき、私はそれを根元的独占と呼ぶ。車はこのようにして交通を独占する力をもっている。車は自分の姿にあわせて都市をかたちづくることができる。実際にロサンジェルスで徒歩や自転車での移動を締めだしたように。

科学と道具

ここまでくると、イリイチが科学に対して牙を剥いているような感覚に陥るが、そうではないと思う。しかし、見出しに「科学の非神話化」がある。その中の一文を引用する。

科学という言葉は人間的活動というより制度的事業を、個々人の予想もつかぬほど創造的な活動というより与えられた謎解きを意味するものになってしまった。

つまり「科学という事実の探究」という人間的活動から、金儲けの道具、人間の管理といった制度的活動に移り、それを与えられた謎解きと言っていると思われる。

そう、科学自体には罪はない。その探究も問題ない。それは「コンヴィヴィアリティのための道具」になるだろう。ただし、第二の分水嶺である「制度的事業のための道具」になった瞬間、科学という分野が批判されるのだろう。

まとめ

長々と書いてきたが、やはり『コンヴィヴィアリティのための道具』というのは「その人らしさ」を尊重するための、道具の使い方の本であると思う。しかし書かれた時代や現状から、かなり道具へのあたりが強く感じるが、分水嶺を考えながらいくと全てを批判しているわけではないと思われる。

本当はここから「健康」とのつながりを述べたかったが、すでに5000字を超えているので別で書くことにする。

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