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自分の「声」で書くということ

本日、自分の「声」で書く技術の読書会に参加しました。

あまりにもよかったです。

今まで、noteを書いてもどことなく自分の言葉でない感覚、装ってしまう感覚があったのですが、そのことの答え、ひいては、自分らしく表現することへの答えが詰まっていました。

まず、本の中身について。
この本には自分の素のままで表現する、ということと、そのために必要なステップが書かれています。

「書く」際の正しいステップについて。
これまで、4時間あったら1時間でまず書き、残りの3時間で編集や修正を加えながら文章を完成させることが多かったのではないでしょうか。
そうではなく、この本で提唱されているのは、まっさらから書くことをひたすら3回(1時間×3)行い、4回目に初めて編集するというもの。
これが正しいステップ。
大切なのは、書くことそのものの時間をより多くとること。
書く中で得られる気づきを大切にすること。

人は書くときに、気づけば読み手目線になってしまう。
そうすると文章の魅力が損なわれる。画一的な文章になってしまう。
また自分自身でも書きたいことが明確ではないケースが多い。
そもそも自分で伝えたいことを自分でも理解できていないから、それを突き詰めるために何度も書く。
ということでした。

私自身、これまで自分の思いに忠実な文章を書くこと、そして人前に出すことに対する抵抗感が少なからずあり、読書会で自身のこの思いをお話させていただいたところ

訳者の岩谷さんから「頭に浮かんだ時点で消していいことはひとつもない」という全肯定の言葉をいただきました。
これは著書のピーター・エルボウさんがお話されていたことのようです。

そして、書いてみて出さなくてもいい。しかし、なかったことにして捨ててしまう、切り捨てるべき文章はない。というお話もいただきました。

創作は、相手に評価されて初めて価値になるとばかり思っていた自身にとって衝撃でした。

最後にフリーライティングを実際にみんなでやってみてそれを発表するということをやりました。
稚拙ですが、そのままを晒す。そして晒してみると、意外と大丈夫だった。
(実際、晒すことに若干の抵抗があり数秒遅れました)

フリーライティング初めてやる、、何かこう。今日のブックトークに参加してよかったことを書こう、忘れないように。会全体の温かみがすごかった。本を出すことの偉大さを感じた。読むときのマインドがこれから変わりそう。一つ一つの本をこのくらいの想いを感じながら読めたら、得るものが変わりそう。本は読むものではなく、使うもの。ティーチャレスワークに参加したい。自分が感じたことをちゃんと記録しておこう。読み手ではなく書き手の想いを大切にしていこう。結構3分長い。内容がとても薄い。

フリーライティングで書いた原文

本当に薄いのですが w
確かに薄いのですが、これはその時に精いっぱい考えて書いた事実です。
ただ、書いている時点で晒すことが決まっていたのでやはり相当に装ってしまいました。一方でこれまでならこの文章は即効消されていたところを生きながらえました。

今日の2時間の読書会を通じて、これまでいかに自身の言葉を禁じてきたかということに気づきました。
参加者の方の、「私が私を殺していたのね」という言葉が刺さりました。

そのままでいいのか、と。
それをちゃんと記録することに価値があると。

最後にプロデューサーのゆうやさんがお話された
「25mプールの中にある穴」が重心を作る、自分の生きたかったところにたどり着ける、というエピソードも大変刺さりました。

自己発見から、自己生成に。

他の方々のフリーライティングは詩的だったり率直で好感が持てました。

書くこと、表現することについて。

新規事業の検証をする中で、本の価値って何だろうってずっと悶々としていました。

自分は本に救われている。
しかし、言語化できない。
まず、ここから「自分の声で書く」をやってみたいと思います。

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