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Kyoto Creative Assemblage: Dec.

受講中の「Kyoto Creative Assemblage(京都クリエイティブ・アッサンブラージュ)」について、12月度(年末年始の休講期間があるので3週分)の講義内容に関する感想などを綴りました。

Part1からPart2へ

11月26日で京都大学が主担当のPart1「社会をよく見て、時代を表現する」が終わり、翌週から早速、Part2「脱未来から始まる、ありうる未来の生態系を思索する」が始まりました。Part2は京都工芸繊維大学(KYOTO Design Lab)、Deep Care LabRE: PUBLICが数回ずつセッションを受け持つ3部構成(このnoteでは、便宜的にPart2-1, 2-2, 2-3と書き分けます)となっており、年末年始を挟んで2月中旬まで毎週のオンライン/対面セッションが予定されています。なお、京都市立芸術大学のアート演習は、引き続き並行して行われます。

12月度講義の流れ

  • オンデマンド:Part2-1「Design for Defuturing and Speculation」講義(Critical and Speculative Design, Defuturing and Pluriversal Design, Transcending Human Centered Design, Foresight Tools, Axes of Uncertainty, Cultural Probe, Virtual Ethnography, Prototyping / LARP: Live Action Role Playing)

  • 12/2 オンライン:講義内容ディスカッション

  • 12/9 オンライン:課題共有、LARPセッション

  • 12/10 対面:アート演習、ゲイダイダイアローグ

  • 12/17 対面:VR Workshop

オンデマンド:Part2-1「Design for Defuturing and Speculation」講義

Part2-1のテーマに含まれるDefuturingとSpeculationは、下記から参照されています(初回セッションに先駆けて共有されたたいへん濃密な講義資料の、ごく一部の抜粋・要約です)。

Defuturing
・デザイン理論家/哲学者のTony Fryは、豪タスマニア島に拠点を構え、持続主義 The Sustainmentに基づくスタジオThe Studio at the Edge of the Worldの活動を展開する。
・Fryは、私たちが直面する危機/環境問題の根源は現代の「開発」概念そのものにあると考え、“持続可能でないもの”を強調するために、Defuturingの概念を提唱した。Defuturingとは、本来あるべき未来の一部を破壊し収奪してしまうような非持続的な開発/デザインを指す(Defuturingという概念/見方によって、可視化・自覚される)。
・Fryはまた、Defuturingの対義語としてFuturingを提唱する。Futuringとは、持続可能性のための、リデザインされたデザインの実践といえる。
Speculation / Critical and Speculative Design (CSD)
・英Royal College of ArtのDesign Interactionを牽引し、現在は米New Schoolで教鞭を取るAnthony DunneとFiona Rabyは、20世紀末からCSDを提唱してきた。
・楽観主義に基づく技術開発へのカウンターとして提示されたCSDは、(端的に言い切るなら)先入観・常識に挑戦するための思索的なデザイン提案である。それは、アプリケーションからインプリケーション(含意:表面に現れない意味)の考察へとシフトするデザインの新しい役割ともいえる。
・現在Dunne and RabyはDesigned Realities Studioを主宰し、世界の新しい見方を想像するための“今・ここではない Not Here, Not Now”場所、新しい出発点の探索をしている。それは、より多くの未来 futuresではなく、ありうる現実 realitiesを可視化する実践といえる。

FryとDunne and Rabyに共通していることは、概念/先入観の根本的な問い直し。特に、その焦点は「未来」にあたっているように感じます。「未来」という概念に特定の価値観やベクトルが含まれて“しまって”いるのではないか、単一の「未来」だけを語ることで見落として“しまって”いる可能性があるのではないか(近代的・西洋的・家父長的な価値観、それに基づく開発、未来以前に破綻している現実など)。このような批評を、Fryはdefuturing(futureを動詞にし、de-とingを付加)、Dunne and Rabyはrealities(futureを複数形にしつつ、対置として現実 realityすら複数形にする)という端的な言葉で力強く表現しています。Part2タイトルには日本語で「脱未来」の言葉が含まれていますが、これらの英語のニュアンスを踏まえて受け取らなければ読み誤ってしまうのかもしれません。それは新奇な発想をせよということではなく、社会をよく見ることを通じた極めて省察的な態度のように感じました。

12/9 オンライン:LARPセッション

Part2-1では、具体的な方法論を通じて、ありうるシナリオの思索(つまり、課題)にも取り組んでいきます。SFプロトタイピングの手法も取り入れつつ、中心となる方法論は、LARP(ラープ、Live Action Role Playing)。KCAでは、Nordic LARPと区分される、目的志向性のあるLARPに取り組みます。長谷川愛さんはLARPを下記のように説明されました。

「いい大人が全力で知恵を絞って、オルタナティブな世界に没入しようと物理世界で身体を伴って行う、ごっこ遊び」

このうち、“全力で知恵を絞って”とは、LARPに取り組むにあたり下記のような“世界の設定”を検討することを指します。

・目的:LARPを通じて、どんなシナリオを探求したいのか?
 ——政治、思想、業界の脅威など
・キャラクター:誰が登場すると、シナリオの探索が捗るか?
 ——立場、所属、性格など
・シチュエーション:どんな場面だと、シナリオが展開しそうか?
 ——会議、想定する現場など

12/9(金)のリアルタイムセッションでは、4-5名のグループに分かれて、即興的にLARPの設定検討&プレイを行いました。設定に悩みつつ、とにかくやってみよう、と15分ほどLARPを実践。そのなかで、 “思考の広がりと感情の深まりが、身体から出てくる”実感を持ちました。Zoom越しではあるものの、全員に同じ時間が流れる場のなかで、人を見て、話を聞いて、自分も発話する。その過程のなかで、設定を検討していたときには思ってもいなかった観点が他の人から出て驚いたり、気持ちが入って思わぬ言葉が自分の口から出てきたり、その逆で発した言葉から気持ちが引き出されるような感覚もあったり。やってみるまで斜に構えていたところも正直あったのですが、一人の頭のなかの思考実験ではなく、身体的に“今・ここではない Not Here, Not Now”世界を生きてみる、その遊びの意味合いに“腹落ち”しました。目的のために事前に「いい大人が全力で知恵を絞って」はみるものの、実際の部分は身体に委ねる(しかない)という姿勢は、頭を使い続ける仕事・働き方に対しての批評でもあるように思いました。

12/10 対面:ゲイダイダイアローグ

これまでのアート演習はまさしく「演習」が中心でしたが、集大成としての第六回を迎える前に、第五回演習のあとに任意参加での対話セッションが初めて設けられました。以下は、そのなかでの印象的だった内容です。

・演習でやってきたような内容を今後もずっと続けようとする人が、アーティストを志す。それはロジックではない積み上げをしていくことであり、その先に違う体ができる。そうなると、見る経験自体も積み上げになっていく。
・京都市立芸大はアーティストになるための教育という側面が強く、あらゆる人のための教養ではない。アートにはどこからでも始められる自由さもあるが、アーティストになるには葛藤のなかで世界に向き合っていく粘り強さが必要である。
・アートをつくることは、どうなるかわからないが身体性の経験に飛び込むことでもある。それは合目的的ではなく、できたものの上手い下手でもなく、感覚することに埋没する経験ともいえる。この演習では、アート思考ではなく、アート(をつくる経験)を提供したかった。
・(結果として、)今の社会に抜けている視点、社会への批判性を持つことに繋がりうる。ただし、社会をよくしようという思いを動機に取り組んでいるアーティストはいないだろう。
・(中山の質問:アーティストは自身のアート作品に対して、最後には“意味付け”しているのか?)していないのではないか。(前提知識として)アートの歴史や文脈をアーティストは認識している。しかし、美術館にキャプションやオーディオガイドがあるが、それを前提にアートを鑑賞しては、見る経験は弱まってしまうように思う。いまの時代は物語性が求められ過ぎているように思うが、アートそのものはいかようにも捉えられる。(受講生やアーティストを志す者は、)意味付けなど“このアート作品とは何か”を言語化することよりも、自分自身が“何を感じたのか”を言語化することが大切ではないか。

上記の最後のコメントを受けて、初回のアート演習についてどう書いていたかな、と9月度記事を振り返って愕然としました。

アート演習の冒頭、京都市立芸大の船越一郎先生・辰巳明久先生は「答えを教えるような演習ではない」とおっしゃいました。私なりに言い換えると、「“これ”は“何”なのか?」を受講生それぞれが見いださなくてはなりません。“何”という意味だけでなく、“これ”という対象すら、その場その時を受け止める受講生次第です。

過去に私が書いた内容を批評的に書き直すなら、アートをつくるとは「いかようにも捉えられる “ただ在る”ものを生み出すこと」。それこそが、明快な目的/意味を追い求める資本主義経済への批判性そのもののように感じました。

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