見出し画像

Kyoto Creative Assemblage: Jan.

受講中の「Kyoto Creative Assemblage(京都クリエイティブ・アッサンブラージュ)」について、1月度(年末年始の休講期間があるので3週分)の講義内容に関する感想などを綴りました。

1月度講義の流れ

  • 1/13 オンライン:Part2-1 最終課題(LARP)共有

  • オンデマンド:Part2-2「Design for Multi-Species & Deep Care」講義(デザインにおける参加/協働/政治、マルチスピーシーズとのコデザイン、マルチスピーシーズの視点とビジネス、マルチスピーシーズへの想像力とケア、Deep Careのためのデザイン)

  • 1/20 オンライン:Part2-2 課題共有、グループワーク

  • 1/21 対面:アート演習

  • 1/27 オンライン:Part2-2 課題共有、グループワーク(LARP)

1/13 Part2-1「Design for Defuturing and Speculation」最終課題共有

1/13(金)に実施された新年最初のリアルタイムセッションは、京都工芸繊維大学パートの最終日。5人×5グループがそれぞれ取り組んだLARP(Live Action Role Playing)の共有がされました。時間の関係上、各グループが“世界の設定”をしたうえで1時間を目安に取り組んだLARP動画の概要だけが共有されましたが、“今・ここではない”世界と現実の差分の大きさに、聞いているだけで“LARP酔い”するような感覚を覚えました。講師側として参加されていた長谷川愛さん、島影圭佑さん、水内智英先生がコメントされたうち、特に印象に残ったものを紹介します。

長谷川さん「(LARPを通じて、議題の)YESかNOではない別の可能性が出てくれたら一番いい。何のためにやっているのかというと、すでにある答えに辿り着くためではなく、わかっていないことにみんなが没入して、深く考えて、新しい、見えていなかった何かをみつけるため。」
島影さん「今回の課題は究極くらいまでの無茶振りだったが、企業でまっとうに働いている人たちがそれをやってしまったというすごいプロジェクトだった。みなさんは職業俳優ではないが、設定上の会議の技巧や演技がうまかった。やろうと思ったら、それぞれの会社でも会議という設定でのLARPができるのではないか。」
水内先生「みなさんのLARPを見て、Role PlayingではなくPlayingだなと思った。デザインではユーザーテストというのもあるが、あれにはRole(ユーザーという役割)があり、その枠から逃れられない。ある意味で、演じているもの。それに対してLARPのなかで役割が解体されていく場面があったのではないか。」

みなさんは、日常のなかで“演じているな”と思う瞬間はありますか?Part1の用語編では、哲学者フーコーが提唱した、人を主体に構成するモノや言説の編成を指す「装置 dispositif」概念を紹介しましたが、私たちは無自覚なまま/その時々に応じた役割を演じているのかもしれません。その振る舞いの理由は、その「位置subject position」に安心感を覚えるからではないでしょうか。一方で、哲学者ドゥルーズとガタリが提唱した、既存の秩序を内部から部分的に解体するときに独自のスタイルが生まれるという「アッサンブラージュ」についても、同じく用語編で紹介しました。アッサンブラージュの概念と上述した先生方のコメントを(強制発想的に)照らし合わせるならば、“私という身体(=内部)を使って演じ、没入した結果として与えられた役割(=既存の秩序)が部分的に解体されることによって、「新しい、見えていなかった何か」に辿り着ける”ということです。私(たち)が会社員として働く日々のなかにも、アッサンブラージュの機会があるのかもしれません。

1/21 アート演習

今回のアート演習の前後には、全盲の文化人類学者でいらっしゃる広瀬浩二郎先生のお話がありました。以下は、そのなかでの印象的だった内容です。(端的な書き言葉にするとややキツい印象になってしまうのですが、物腰のやわらかい素敵な方でした)

・目で「見る」ことと、いろんな感覚を使った「みる」ことを使い分けて、説明したい。たとえば、全盲の人もテレビを「みて」いる。それはラジオのように聞いているのではない。想像を膨らませるための情報の観点で、違うものである。見えた方が情報量は多いが、単純に情報が増えればいいのだろうか?見ないからこそ、想像力がはたらくこともあるのではないか。
・一方で、「見る」から参考にできることもある。英語で「さわる」はtouchかfeelくらいであまり区別はないが、look/watch/seeを応用することでさまざまな「さわる」が考えられる。手のひらで大きくさわる(look:全体をみる)、指先で小さくさわる(watch:注意深くみる)、全身でさわる(see:場と自分がとけあう/つながるようにみる)。このように、動物的・本能的で言語化が難しい「さわる」ことを、理論的に説明できるかもしれない。
・歩くについて考えると、みなさんは視覚を使って確認型の歩き方をしていると思う。全盲の人は、わからないけど歩いてみるという探索型の歩き方をしている。それは、在る道を歩いているのではなく、道をつくっているといえる。
・明かりがなかった時代まで遡れば、夜になれば誰もがいま以上に視覚以外の感覚を使っていたはず。明治以降は街が明るくなり、現代ではコンビニもたくさんある。文明に見捨てられた視覚障害者が、人類本来の生活をしているのかもしれない。
・今日の演習では、「見る」ということを違った角度から捉え直し、探索型で世界を把握する探検をしてほしい。視覚“が使えない”ではなく、視覚“を使わない”体験を通じて、みなさんのなかに眠っている感覚、ある種のマイノリティ性を掘り起こしてもらいたい。
・(演習後のコメント)民博の企画で、アイマスクをしてブロンズの彫刻をさわり最後まで見せないという無視覚鑑賞を実施したことがある。これまででもっとも反響があった企画。そのアンケートで、「最後に見て正解を知りたかった」というコメントが多くあった。見たい気持ちはわかるが、引っかかるのは「正解」という言葉。見ないでさわった鑑賞は、正解ではないのだろうか。いつの間にか、視覚で見ないと正解ではないと思っているのかもしれない。

さて、最後となる第6回目のアート演習は、 “アートの持つ「エステティック(美学)」(=既存のフレームワークの宙吊り)”をもっとも感じました。「見る」ことを信じていた/に頼っていた日常から、ひょいと吊られてしまったのです。ほかにも、さまざまな点でPart1の方法論/理論との繋がりが見いだせそうです。たとえば、「星座」の参照元となっているベンヤミンは、“勝者の歴史から排除された事象(敗者)と他の事象を関連づけ意味を取り出すこと”を「救済」と呼びました。また、「価値転換」を提唱したニーチェは、「偽なるものの最高の力」という言葉を残しています。…と書きましたが、それぞれの主張は理解できるものの、世界/時代の渦中にいる私たちが「勝者」や「偽なるもの」に自覚的でいつづけることは難しいように感じます。ここで改めて、9月度記事で紹介した、アート演習の狙いを読み直してみました。

「アーティストが持つ、言葉で説明しにくいが、個人的に体得しているスキルとは何なのか。京都芸大の総合基礎実技を経て芸術を学んでいる学生たちが、共有している価値観や感性、あるいはそれぞれが研鑽し続けている『勘』(=身体知)とは何なのか。言葉では説明できない『勘』を、アート演習を通じて獲得していただくカリキュラム」

9月度記事では、私の思いとして、「この『勘』が『新しい世界観をつくる』ことにどう活きるのか/活かせるのかを考え」たいと書いていました。全6回のアート演習を終えたいまの私が(暫定的に)書くなら、以下がその回答です。
「アーティストの持つ『勘』とは、自らがその世界/時代に生きながら、勝者/敗者あるいは真/偽の社会的構造に気づく力である。その気づきを『救済』や『価値転換』に活かすことで、エステティックの側面を有する新しい世界観をつくることができる」

1/20,27 オンライン:Part2-2「Design for Multi-Species & Deep Care」講義

京都工芸繊維大学によるPart2-1に続くのは、一般社団法人Deep Care LabによるPart2-2。1/20(金)から「Design for Multi-Species & Deep Care」のタイトルで全3回の講義が始まりました。今回のパートも、初回セッションに先駆けて講義資料・動画が事前共有されました。テーマに含まれるMulti-SpeciesとDeep Careとは何なのか/いかに関連しているのかを、ごく一部を抜粋して紹介します。

・「ケアは人類的な活動であり……この世界を維持し、継続させ、そして修復するためになす、すべての活動を含んでいる。世界とは、わたしたちの身体、わたしたち自身、そして環境であり……あらゆるものを含んでいる」Fisher and Tronto(1990)“Toward a Feminist Theory of Caring”
・Deep Careとは、Deep Care Labが提唱する概念であり、「祖先・子孫・山川草木・動物をふくむあらゆるいのちへのケアの営み」を指す。具体的には、自分の外へと想像力を飛ばすことで、あらゆるいのちも含んだつながりに生きる“わたし”へ自己を拡張し、ケアの実践をおこなうことを志向する。
・Deep Careを提唱する理由は、問題意識として「環境危機に対して必要な変革は、あり方や世界観の変容」だと考えているため。組織やシステムを変える前に、「イマココわたしがよければいい」という世界の観方(world-view)/思考からの脱却が必要である。この世界の観方には、「社会の中心は人間である」という考え方も内在している。
・「人間以外のニーズとの本質的で複雑な相互依存関係を認めずに、持続可能性を人間のニーズへの関心に還元してしまうと、人類は現在のニーズを満たすことができなくなり、同時にあらゆる種族の将来の世代が自らのニーズを満たすことができなくなる危険性……マルチスピーシーズの状況を考慮せずに人間のニーズを理解することはおそらく不可能」Rupprech et al.(2020) “Multispecies Sustainability”

以上のことから、“環境危機への対応/持続可能性のために、人間以外のあらゆる種(Multi-Species)に目を向けることは不可欠であり、その実践をケア(Care/Deep Care)と称する”、と整理できるかと思います。
上述したケアの定義については、講義のなかでたびたび取り上げられていたFisher and Tronto(1990)を紹介しました。しかしながら、正直に私の印象を書くと、この定義には違和感がありました。それは、「ケアは人類的な活動」というフレーズがあったためです。身近な例でいえば、玄関を開けた時に迎えに来てくれる愛犬や愛猫の姿を想像すると、ケアされたと感じる方もいるのではないでしょうか。また、Part1の用語編でアッサンブラージュの一例として挙げた「花・ミツバチ・その自然環境」は、人間のいない世界のなかでケアしあっているとも捉えられるかもしれません。マルチスピーシーズの観点によって「社会の中心は人間である」という考え方から脱却することを目指すのであれば、ケアの営み/主体もまた、あらゆるいのちにひらいていく必要があるように感じました。この観点は、引用されている編書論文が出版された1990年から30年以上を経た、現代だからこその視角なのかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?