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Kyoto Creative Assemblage: Oct.

受講中の「Kyoto Creative Assemblage(京都クリエイティブ・アッサンブラージュ)」について、10月度(4週分)の講義内容に関する感想などを綴りました。記載方針については、9月度記事の冒頭をご覧ください。

10月度講義の流れ

  • 10/1 対面:課題共有、ディスカッション、アート演習

  • オンデマンド:イデオロギー、「社会をよく見る」方法論

  • 10/7 オンライン:課題共有、ディスカッション

  • オンデマンド:近代、現代

  • 10/14 オンライン:課題共有、ディスカッション

  • オンデマンド:アートと資本主義、資本主義の美学化

  • 10/22 対面:課題共有、ディスカッション、アート演習

  • (次回10/28 オンライン)

10/1 対面:ディスカッション、アート演習

個人課題に取り組むにあたって、どのようにすれば自分のバイアスを取り除いたリサーチができるのか?この受講生の悩みに対して、山内裕先生は下記のように答えられました。

山内裕先生「それを『バイアス』というかどうかはあるが、自分のバイアスはどんどん使ったらいい。文化人類学のエスノグラフィも同じだが、“真っ白な状態”でフィールドに行って記述するわけではない。『文化』が現れるのは、文化を理解しない他者が現れたとき。つまり、自分のバイアスを使って相手の文化を理解し、そのうえで、自分のバイアスがこうであったと反省的に理解することが重要。」

この回答の内容は、同日のアート演習を通して実感したことそのものでした。突然現れた「写生対象」に対して、何かしらの自分なりの取り組み方・向き合い方(=バイアス)がなければ、何も捉えることはできません。正直なところ、与えられた写生の時間はただ目前の対象を描くだけの感覚でしかありませんでしたが、合評を通じて“ただ目前の対象を描いた”なかにもバイアスが“潜んでいた”ことが否応なくさらされました。アート演習では成果物を比較することによって自分のバイアスを(半ば強制的に)理解することができましたが、日常や業務ではそうでない状況がほとんどのなかで、いかに「反省的」にいられるか。決して簡単な話ではありませんが、“真っ白な状態”では他者/文化を理解できないのであれば、その時々に自分に“も”理解の矛先を向ける必要があるように感じました。この点は、9月度記事の「らしさ」に関する気づきと共通しているように思います。

10/7 オンライン:ディスカッション

9月度記事でふれた「イデオロギーの星座」ですが、端的にいえば“人々がふりむいている現象(の背後にあるイデオロギー)を空間的に配置したもの”です。10月度の課題を通して、受講生はそれぞれの「イデオロギーの星座」作成に取り組みました(方法論の内容については、ひと通り終えてからまとめたいと考えています)。馴染みのない方法論に私含め受講生が試行錯誤するなか、先生方からのコメントでガツンときたのは、「解釈しないこと」という指摘でした。

10/1 山内裕先生「(現象を)こういうことだからと解釈してしまうと抜け落ちてしまう。そうせずに現象を『対置』することで、同じこと・違うことの輪郭がはっきりしてくる。解釈して何かに還元しないこと。」

10/1 弦間一雄先生「いわゆる『デザイン思考』の方法論では、解釈してまとめて(=“問題”を定義して)、そこから発想せよとなっている。しかし、まとめるなかで捨てられてしまう要素があり、もったいない。最終的には捨てるのだが、集めた現象をプロセスのなかで長く引きずり、そのまま発想にもっていくやり方だと思ってほしい。」

10/7 山内裕先生「なぜふりむいているのか、ふりむく本人ですら厳密にはわからない。わからないなりに、そこには世界観があり、特定の主体が想定されていて、主体化のプロセスが起こっていることは事実。それを解釈してしまうことなく、世界観の輪郭を明らかにしていこうというアプローチ。」

私たちは普段、“よくわからないもの”に出会うと、すぐさま“自分なりにわかるもの”へと「解釈」してしまいます。それは日常を円滑に生きるうえでは必要な思考プロセスなはずです。しかし、「社会をよく見る」ことにおいては、“よくわからないもの”をそのままに扱いながら、わかろうと向き合い続けなくてはならない。この矛盾の構図を理解しておくことで、取り組み過程における“わからない居心地の悪さ”を多少は受け止めやすくなるのかもしれません。

10/14 オンライン:ディスカッション

この週の講義内容であった「近代」と「現代」の総括のひとつは、「時代は“重さ”から“軽さ”の方向へと流れている」こと。それを受けた「古い伝統と“軽さ”は相反するものなのか?」という受講生の質問に対して、山内裕先生は下記のように説明されました。

山内裕先生「古い伝統的なものは大事という価値観はあるが、ただ単に古いものでは(時代を画すという視座においては)見向きもされないのではないか。たとえば最近は“昭和の喫茶店”が増えている、いわば古き良き時代への回帰。しかし、中年男性がタバコを吸って、などに戻りたいわけではない。昭和の喫茶店“っぽい現代的なもの”に戻りたいということ。スターバックスの事例のように、ある種の矛盾(の成立)が求められる。」

“軽さ”という言葉に対して私なりのニュアンスを付け加えるなら、主観的な取り入れやすさとしての“気軽さ”を指しているように感じました。そうであるなら、その時代を生きる人(「主体」)の視点なしに“軽さ(を感じる世界観)”をつくることはできません。そして、古く伝統的なものは単純に否定され塗り替えられていくものではなく、むしろ“軽くすること”によっていまの時代にもひらかれていくように感じました。この時代における“軽さ”のある伝統的企業、とはどのような姿でしょうか?

10/22 対面:ディスカッション、アート演習

この週の講義は「アートと資本主義」と「資本主義の美学化」。昨年度実施されたプレプログラム「Prolegomena」の「Session 3:アート思考とは」と「Session 8:アートとは」でもふれられたテーマが改めて/詳細に取り上げられました。この講義内容についてのQAのなかで、山内裕先生の下記の一言が、とりわけ印象的でした。

山内裕先生「資本主義を外から批判しても意味がない(価値を生み出さない)」

資本主義についての論考は過去から無数にありますが、それらを頭で理解し言葉で資本主義批判をしても、批判対象である資本主義に具体的な変化が生まれることはありません(この点について、主張はさまざまあろうかと思います)。私も企業で働く一人ですが、企業に所属し資本主義の原理のなかで活動しているからこそ、自ら手がける事業を通じて資本主義を“見ること”と“(批判を)描くこと”ができるのではないでしょうか。この“資本主義─事業─自社”の関係に、同日のアート演習のなかで提示された“対象─絵─自分”との共通項が見出せるように感じました。

公開イベント「ダイアログ」告知:11/11(金)夕方

京都大学で佐藤可士和さんが講演されます。題材はユニクロのグローバルブランディング。受講生向け講義のなかでもたびたび取り上げられていますが、山内裕先生が聞き手になられることで、Kyoto Creative Assemblageらしい切り口での分析がが展開されるかと思います。対面のみ・アーカイブ未定らしく、平日につき参加には調整が必要かと思いますが、またとない機会ですのでぜひご検討ください。
ダイアログ:佐藤可士和の創造性を読み解く

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