見出し画像

『TÁR』と欲望

2023年のアカデミー賞では作品賞含む6部門にノミネートされ、日本では2023年5月12日に公開された『TÁR』(邦題は『TAR/ター』)。公開初日に映画館で字幕版を鑑賞し、その後に2回観るほど、惹き込まれる映画だった。本記事では、この作品にふさわしい光の当て方だと個人的に感じている、「欲望」について紹介したい。なお、本記事は最後まで公開情報の範囲で記載する(ネタバレ含む内容自体の考察については、数多ある他の記事や動画を参照されたい)。

欲望 desire

今回も、京都大学経営管理大学院 教授の山内裕先生による記事を参照している。なお、以下の記事ではイノベーションのアプローチである「エステティック・ストラテジー」に関連する用語に並んで「欲望」が出てくるが、本記事では欲望にのみ焦点を置いて引用する。

さて、欲望とは何か? 欲望はモノを獲得して解消されるものではない。欲望の対象を獲得したとき、人々は失望する。欲望は、常に何らかの謎に駆り立てられている

第4パラグラフより転載

一方で、欲望が何か意味不明の謎に駆り立てられていることを少しでも感じとり、違和感を持っているなら、私たちはさらに深い欲望に向かう。この謎が何なのか? 権威としての社会は、自分に何を欲しているのか?この謎に向きあうことが重要となる。そして最終的には、この謎の背後には何もないことを感じ、一息つけるようになる。社会において何も謎などない。

第6パラグラフより転載

トッド・マクゴワンは、映画はこの無意味という欲望の謎を呈示するという。そして、わかりやすいハリウッド的な映画は、愛の成就というシナリオによってこの謎を獲得して終ることで、謎を飼いならし欲望において譲歩する。人々をほっとさせ、また欲望のサイクルに戻ることを可能にしてくれる。一方で、時代を画した数々の映画は、この謎を人々につきつけ、向き合うことを求める。これらの映画が時代を画すことになるのは、ここで表現される謎=無意味=不可能性=トラウマ的核がまさに私たちの欲望の根底にあり、人々がそれらに恐怖を感じながらも囚われているからである。そういう映画はすぐには評価されないかもしれないが、じわりじわりと人々を魅了する。そしてその時代の多くの人々が同一化していくことで、時代の表現となる。

第7パラグラフより転載

以上から、人々の欲望は「謎」と関連している。そして、その時代・社会の意味から排除されている「謎」(=意味が与えられないもの=「無意味」)を核とした表現をつきつけることが、時代を画すことに直結する。
なお、引用元は2023年3月16日に公開された記事だが、11月12日には「イノベーションの欲望」が公開されている。また、欲望を越えた欲望としての「享楽」についての記事も、近々公開される見込みとのこと(11月28日追記:公開されました「享楽のイノベーション」)。ご関心があれば、ぜひこれらも合わせて読んでいただければと思う。

さて、『TÁR』の公式サイトでは「この映画のラスト、どう見た?」というページがある。つまり、まさに「謎」がつきつけられ、その結果として議論が起こる結末を迎えるのである。

結末に至る過程を捉えるにあたって、以下記事で独占公開されているインタビューのなかでリディア・ター役を演じたケイト・ブランシェットが語っている内容(2:55〜5:05、含むストーリー展開)は、示唆に富んでいる。それは、上述した欲望(そして特に、欲望を超える欲望としての「享楽」)についての核心を突いているように思う。
ちなみに、同インタビューの内容は映画パンフレットでも記載されている。観賞後に読んだ際に、思わず唸ってしまったことをよく覚えている。

Prime Videoでは、11月27日時点で「まもなくPrimeで5日以内に公開」とのこと(字幕版吹替版)。機会があればぜひ楽しみとして『TÁR』をご覧いただきつつ、欲望や謎について考えるきっかけにもしていただければと思う。
(なお、本記事のトップ画像は、米国映画製作・配給会社Focus Features社の『TÁR』公式サイトから転載している。このビジュアル表現についても個人的には興味深く感じるが、日本では展開されていない。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?