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『バービー』とパフォーマティヴィティとパロディ

日本公開前に全世界興行収入が10億ドルを突破した『バービー』を先ほど観てきた。この作品も前記事で紹介した「エステティック」概念による価値創造を体現した映画のように思うが、本記事ではパフォーマティヴィティとパロディという別の光の当て方を紹介したい。なお、本記事は最後まで公開情報の範囲で記載する(ネタバレ含む内容自体の考察については、数多ある他の記事や動画を参照されたい。また、ソーシャルメディア上のやり取りをめぐる批判については触れていない)。

パフォーマティヴィティ performativity / パロディ parody

本記事がいうところの「パフォーマティヴィティ」概念と「パロディ」概念は、ジュディス・バトラー著『ジェンダー・トラブル』に関する、京都大学経営管理大学院 教授の山内裕先生による以下の記事を参照している。核となるいくつかの文章を転載するが、ぜひ原文を一読いただきたい。

パフォーマティヴィティとは、何か現実があって、それを説明するという関係性を逆転させることを言います。つまり、説明するという行為が、現実を構成すると捉えます。

第2パラグラフより転載

ジェンダーのパフォーマティヴィティとは、そもそも性別という概念自体が何か自然に、解剖学的に存在している本質かのように捉えることを否定します。つまり、ジェンダーとは不確かなものでしかなく、そんな本質などないということです。

第4パラグラフより転載

しかし、このパフォーマティヴィティはジェンダーに限りません。基本的に何らかの社会批判をするときに、社会の外部に支点を置いて、誰かを「解放する」という政治に問題があるということなのです。もし誰かを解放することを目指すなら、それは言説に囚われていない本来の、つまり本質的な自己を取り戻すということです。しかし、Butlerにとっては前言説的な本来の現実は幻想でしかないのです。
つまり、あらゆる「解放」の政治が、実はそもそも自分が批判してきた「帝国主義的な戦略を配備する位置」を自らに与えていることになります。これは特に、誰か弱い人々を解放するという、とても「正しい」政治を批判することを意味します。このような批判は理不尽であり、逆に批判にさらされるでしょう。しかし、批判しなければならないことがあります。
それではもはや政治は不可能であるということなのでしょうか? そうではなく、社会の外に支点を持つのではなく、内部から攪乱する政治が可能なのではないかということです。つまり、「パロディ」です。女装するという行為は、女性というイメージを無批判に受け入れているとフェミニズムに批判されます。しかし、より派手に女装するというパロディは、むしろ規範の模倣であり、ジェンダーという規範がむしろ空虚なものであることを暴き、かつジェンダー自体が模倣にすぎないということを暴く高度な批判であるというわけです。

第7、8、9パラグラフより転載

『バービー』におけるパロディ

言わずもがな、『バービー』は人形(ドール)を題材とした映画である。この人形としてのバービーとケンは、人形という立場でありながら、「女」と「男」というジェンダーを体現する。そして、バービーランドとリアルワールド(人間の世界)が存在し、さらにバービー(とケン)という人形をつくったマテル社も登場する。このような登場人物と複層的な舞台のなかで、スタッフロール直前の最後の一言まで、徹底的にジェンダー(あるいは生物学的性差といわれているセックス)についての「パロディ」が演じられているように執筆者には感じられた。それはある種のコメディのようにも映るが、人形(をめぐる人間)を通してジェンダーそのものを高度に批判している、極めて政治的な映画であったように思う(ここでの「政治」という言葉の扱いにも留意が必要である)。

個人的にはエンターテイメント映画としても好きな作品だったが、このようなレンズを通しても、また観たい思える作品だった。

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