見出し画像

『君たちはどう生きるか』とエステティック

スタジオジブリ映画『君たちはどう生きるか』はエステティックによる価値創造の現在進行形の事例である、という生煮えの考えをこの記事では綴りたい。なお、執筆者は本作を7月14日・17日と2回観ているが、本記事は最後まで公開情報の範囲で記載する(ネタバレ含む内容自体の考察については、数多ある他の記事や動画を参照されたい)。

エステティック aesthetic

本記事がいうところの「エステティック」概念は、京都大学経営管理大学院 教授の山内裕先生による「エステティック・ストラテジー」を説明した以下の記事を参照している。核となるいくつかの文章を転載するが、ぜひ原文を一読いただきたい。

システムの中に表象されるものがあるとして、その中でパズルを解くことは有用なことである。しかし、もしそこからはみ出るものがあるとすれば、表象されたものだけで議論することこそが欺瞞となる。この表象をはみ出るものを感じ取るのが、エステティックである。
そしてエステティックとは18世紀中頃に始まる美学も意味する。美学における判断は、あらゆる関心を宙吊りにするものである。つまり、美学が対象とするアートは、見る人に教養が足りないからわかりにくいのではなく、そもそも意味の連関を宙吊りにするものであり、わかるということ自体を中断している。エステティックとは、頭で考えることを不可能にし、感性を先鋭にする。これがエステティックの批判であり政治である。

第3、4パラグラフより転載

例えば優れた映画が時代を画すとき、多くの人の中に言えなかったこと、見えなかったことが明らかにされる。私たち自身のあらゆるところに、聞かれない声、見られない身体、感じられない存在がないだろうか。敗者とは、具体的な人のことだけではなく、そういう感性的な水準で消し去られているものである。そしてこの水準で救済が起こるとき、本当に排除されている人々が救済される。しかし救済は無意味を意味の連関に含めることではなく、無意味自体を表現することである。

第5パラグラフより転載

私は、ひとつの時代を切り開く映画を、価値創造のモデルとして考える。映画は時代の表現であり、政治的でもあり、なおかつ人々を魅了し利益を上げる。映画は今まで語ることも、見ることもできなかったもの、つまりシステムの中に表象されなかったものを表現することで、人々に新しい自分たちの可能性を提示しようとする。いや、むしろそのような可能性がないこと、つまり無意味を提示する。人々が見ようとして見なかったものが、見えるようになり、居心地の悪さを感じる。しかし、そこから今までの時代が急速に古くさく感じることになり、新しい時代の息吹が感じられるようになる。

第8パラグラフより転載

そして、逆説的なのだが、無意味こそが私たちの欲望を構成する。無意味とは、意味の連関から排除されていること、表象のシステムからはみ出ること、社会が不可能であることである。社会はきれいに意味のシステムで閉じられることはない。私たちの欲望は、このシステムからはみ出る謎、無意味、不可能性によって駆り立てられている。

第16パラグラフより転載

山内裕先生と、同大学院 佐藤那央先生によるポッドキャスト最新回もエステティックがテーマのため、関心がある方はこちらも聴いていただけるとより理解が深まるように思う。

さて、「エステティック・ストラテジー」はエステティックな観点での価値創造(イノベーション)を目指すアプローチだが、上記転載の通り、映画がひとつの価値創造のモデルだと言及されている。
本記事執筆者は、「君たちはどう生きるか」がいま・ここの生きた事例のように感じている。拙いながら、公開直後時点の自身の考えをまとめておく。

鈴木敏夫プロデューサーによるエステティック

作品の事前情報がタイトルとポスター1枚のまま、『君たちはどう生きるか』は7月14日に劇場公開された。公開後であっても、引き続き公式ウェブサイトはシアターリストのみで、パンフレットも公開後販売(7月18日時点で未案内)という、「異例の宣伝方針」が継続している(公開後、主題歌の提供や声の出演については当人からの発表がなされている)。
NHKによる単独インタビューのなかで、プロデューサーの鈴木敏夫氏は以下のように語っている。

「事前に内容を伝えないという方針は最初から決めていました。これまでと同じことはやりたくなかったんですよ。製作委員会という仕組みを作ったのも、どうやら僕らしい。映画の大宣伝を繰り広げたのも僕でしょう。その反省にのっとってやるというのが、僕にとっては今回の大きなテーマ。自分で始めておきながら、今の映画の宣伝状況はどこかで1回ストップさせなきゃいけないと思ったことは確かです」

つまり、マスメディアを相手にせずウェブ/ソーシャルメディアのバズも狙わない、持てる者の無言(無宣伝)が「社会への内部からの批判」であり、結果的に「内と外を攪乱する微妙な実践」として最大級の“宣伝”になったのではないか。

宮崎駿監督によるエステティック

「君たちはどう生きるか」というタイトルは、吉野源三郎の同名小説からとられている。その吉野源三郎の孫にあたる吉野太一郎氏は、キャスト・スタッフ向け試写に招待されたときの振り返りを7月14日に合わせて公開された記事で綴っている。

 「おそらく、訳が分からなかったことでしょう。私自身、訳が分からないところがありました」。
 2023年2月下旬、東京都内のスタジオで上映された、「君たちはどう生きるか」の初号試写。米津玄師の歌うピアノバラードが流れ、エンドロールが終わった瞬間、灯りが点き、宮崎駿監督のコメントが読み上げられた。
 客席から軽い笑い声が漏れた。私もその一人だった。あまりの展開の速さと、盛り込むだけ盛り込まれた情報を消化しきれず、茫然と座り込んでいたが、その言葉で我に返った。
 これは「宮崎アニメ」の集大成なのか、吉野源三郎の著書『君たちはどう生きるか』の再解釈なのか。とにかく、1回見ただけではとても全容を把握できなかった。

執筆者自身、1回目を観終えた直後は吉野太一郎氏とまったく同じ印象であった。その“訳のわからなさ”は、(作品のごく一部かもしれないが)宮崎駿氏自身も同じくであるという。
本記事冒頭でふれたように、『君たちはどう生きるか』を考察する数多の記事・動画・コメントなどが出ているが、いわゆる映画評論家/レビュアー以外の人々も多く発信しているように見受けられる(私もその一人に数えられる)。まさに「私たちの欲望は、このシステムからはみ出る謎、無意味、不可能性によって駆り立てられている」状況であるように感じる。そして、それらの考察は決して一意ではないのだが、いかに作品に対して光をあてるかは考察者自身の「敗者の救済」となっているのではないだろうか。

「君たちはどう生きるか」はイノベーションか

日本経済新聞をはじめとするメディアの報道によると、公開後4日間で135万人を動員し、興行収入は21億4000万円を突破。スタジオジブリ最大のヒット作品である「千と千尋の神隠し」の公開後4日間の興行収入をも超えたという。
これらの実績からも、『君たちはどう生きるか』はエステティックな観点での価値創造を実現した、ひとつのイノベーションと見なしうるのではないだろうか。

イノベーションとは、この意味での欲望を生み出すものであり、だからこそ社会批判であり、開放の可能性であり、新しい歴史の創造であると言えるのだ。素晴しい映画が成功し利益を上げるのと同じように、イノベーションは利益を生み出すだろう。そして批判されるだろうが、批判されることを祝福すべきである。

「私たちのアプローチ - エステティック」最終パラグラフより転載

本来であれば作品が文脈づけられる時代の必然性なども考察すべきだが、そこまで自身の考えが至っていないことを最後に付言しておく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?