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「エステティック・ストラテジー」とは何か:2年目の私的まとめ前編

一期生として昨年度修了したKyoto Creative Assemblageが、二期として今年度も実施されています。そして、前半にあたるPart1「エステティック・ストラテジー」にメンターとして参加していますが、その内容が一期から大幅にアップデートされているため、もはや受講生と同じ感覚で学んでいる状況です。そこで、受講していた昨年度と同じく、今年度も自身の学びの整理として本記事を書きました。一期の講義内容は参照せず、二期の講義内容および一期以降に公開された記事論文ポッドキャストを参照しています。山内裕先生の趣旨・主張を正しく汲み取れていない可能性がありますので、あくまで一人のフォロワーが受け止めた内容とご理解ください。


エステティック・ストラテジーとは、既存の意味のシステムを解体し、人々が本当の自分を感じられるような世界観を呈示するためのイノベーション論である。前編では、以下の目次順でキーワードを追うことで、この結論に至るまでを見ていく(イノベーションのアプローチについては、後編として別の記事に記載する)。


自己表現

エステティック・ストラテジーは、人々の自己表現に焦点を置く。人々は、近代の延長にある今の時代を生きる中で、自分が何者でもない不安、社会に認められず時代に忘れられてしまう不安、自分を表現しきれず悶々とした感覚を少なからず持っている。それらは、行き詰まりに直面する時代において特に感じられるものである。その解決策として、既存の枠組みの中で(潜在)ニーズを満たすことや、素晴らしい体験を提供することは、人々の一時的な満足に留まる。そうではなく、既存の枠組み自体を破壊し、枠組みの外に人々を連れ出すことで、その時代の新しい自己表現を可能にしなくてはならない。つまり、世界を開示し、人々を開示していく、緊張感を伴うデザインが必要である。

人々の新しい自己表現を可能にするために、エステティック・ストラテジーは人文社会学の理論に立脚して構築されている。以降はその諸理論にふれていく。

世界観、イデオロギー、空虚な記号

“世界観 worldview”とは、いわば世界の表現である。どのような商品、ブランド、サービス、政治的アジェンダにも世界観がある。そして、“イデオロギー ideology”とは、世界観の中にある世界を意味づけるアイデア、あるいは、ある世界を支える観念である。つまり、表現としての世界観と、それを意味づける/支えるイデオロギーは、対となっている。イデオロギーの例として、一般的には社会主義や家父長制などが挙げられるが、マクドナルドの“近代性”やコカコーラの“アメリカ”もイデオロギーといえる。

スラヴォイ・ジジェクによれば、ひとつの世界観は“空虚な記号 signifiant”によって綴じられ、その記号は個々の特徴を超えてイデオロギーを象徴する。それは遡及的に、あたかも全てが空虚な記号から生じたかのように見えるものである。例えば、コカコーラの具体的な特徴をいくら集めても、それらは“アメリカ”を象徴しないが、“コカコーラ”という空虚な記号は“アメリカ”を象徴する。

イデオロギーへの同一化

ルイ・アルチュセールによれば、イデオロギーとは、日々の慣習行動の中で作動する、物質的なものである。そのイデオロギーは人々に“よびかけ interpellation”、人々がそれに自ら“ふりむく”ことで、特定の存在に“主体化”される。この構図は、自発的な行為でありながら(subjectivity)、自分の内面ではなく外から来たイデオロギーに従属するという(subjected to)、“主体 subject/sujet”の言葉が持つ二面性を含む。つまり、主体化とは“同一化 identification”である。ジジェクは同一化について、空虚な記号という綴じ目に主体が縫い付けられることだと説明している。

まなざし、トラウマ、空想、欲望

ジジェクによれば、イデオロギーへの同一化とは、好ましいイメージへの同一化(想像的同一化)という単純なものだけでなく、それを見ている〈他者〉の“まなざし”への同一化(象徴的同一化)でもある。この〈他者〉とは、社会や時代であり、後述する“意味のシステム”それ自体である。〈他者〉が自分に何を求めているかわからないという意味で、人々は〈他者〉を理解できず、その余剰に絶対的な権威を感じる。そのような恐怖、わからなさ、謎が背後にあるイデオロギーの“よびかけ”にこそ、人々は“ふりむく”。しかし、必ず過剰な何かが残る(結局わからない)ため、〈他者〉の“まなざし”への同一化は失敗に終わる。この失敗は人々のトラウマとなり〈他者〉に対する権威をさらに感じ、同時に、人々はそのトラウマを隠し取り繕うために〈他者〉についての説明を空想する。そして、それでも権威を持つ絶対的〈他者〉に同一化したいという意味で、欲望は構成される。

意味のシステム、敗者、無-意味

“意味のシステム”とは、言説である。筆者なりに表現するなら、社会・時代とはこういうものだ、と言うときの“こういうもの”である。この言説には、何がよく、何がわるいのか、という価値を示すために構築された価値基準も含まれている。

既存の(つまり今を生きる私たちを取り巻く)意味のシステムは、歴史によって構築されている。この歴史とは“勝者の歴史”であり、意味のシステムを安定して成立させるために排除された過剰(を有する事象)が必ず存在する。ヴァルター・ベンヤミンは、排除された過剰のことを“被抑圧者 Unterdrückten/downtrodden”と呼び、エステティック・ストラテジーでは“敗者”と言い換えている。敗者は、既存の意味のシステムから見れば、意味が与えられないもの、すなわち“無-意味”である。意味のシステムからはみ出している以上、この無-意味が何なのか、人々ははっきりと語りえず、謎である。

意味のシステム(権威を持つ絶対的〈他者〉)と、そこから排除された無-意味は、構成的だが異なるものである。しかし、それらには、わからなさ・謎があるという点が共通している。つまり、それらに何か答えがあるのではないか、という欲望と関連する。すなわち、人々は無-意味にも駆り立てられ、欲望する。人々が自ずと従っている意味のシステムは、過剰を排除しながらも、排除されたものを欲望するという、いかがわしい構造を持っていることを認識しなくてはならない。

享楽、自由、意味のシステムの解体

無-意味への欲望は、“享楽 jouissance”概念として説明される。アレンカ・ジュパンチッチによれば、享楽とは、欲望以上の欲望であり、理由、意味、合理性を越える欲望である。この享楽という欲望は、意味のシステムの内部で与えられる、自分に関する意味への疑わしさに対して生じる。だからこそ、人々は答えを欲して外部を求める。すなわち、意味のシステムの外側に排除されていた無-意味を享楽することで、本当の自分を知ろうとする。その無-意味の深淵を覗き見ることは、トラウマを隠すために取り繕った空想を取り去ることであり、危険で自己犠牲を伴うような欲望に映る。しかし、確かに人々が享楽という欲望を持っていることを、私たちは理解すべきである。

この享楽は、イマヌエル・カントが『実践理性批判』で説いた“自由”概念へと接続される。ここでいう自由とは、外部の原因による因果律を超える何かである。形式的な道徳律(“しなければならない must”)のためだけに、それ以外の関心なしに行為する(“することができる can”)ことこそが自由であり、それは“倫理的”行為とされる。このような自由は、既存の意味のシステム(=因果律)の内部では遂行しえない。

つまり、人々の倫理的な享楽を可能にし、自由の遂行を可能にするためには、“既存の意味のシステムを解体すること”が求められる。これが、エステティック・ストラテジーにおけるイノベーションの定義である。(エステティック・ストラテジーにおける道徳律、自由、倫理といった用語は、カントに依拠していることを十分に理解する必要がある。)

後編の記事では、このようなイノベーションをいかに起こせるのか、そのアプローチについて記載する。


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