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『GIFT』と両義語法

爆音映画祭 in ユナイテッド・シネマ アクアシティお台場 Vol.14の特別企画として上演された『GIFT: A Live Score by Eiko Ishibashi X Film by Ryusuke Hamaguchi』を鑑賞した。そのライブパフォーマンスがどのような背景を持っているかは、同企画の説明文が端的に示してくれている。

きっかけは石橋から濱口への映像制作のオファーだった。
『ドライブ・マイ・カー』での共同作業を機に石橋英子から濱口竜介へライブパフォーマンス用の映像制作をオファーし、試行錯誤を重ね完成した『GIFT』の為のサイレント映像。それと共に長編映画『悪は存在しない』が誕生した。
主従の無い音楽と映像と物語の超越した関係が生み出す特殊な時間の体験。
『GIFT』では石橋による即興ライブ演奏が、濱口による映像に干渉を及ぼし、常に「一回きり」の映像-音楽体験が生まれる

https://www.unitedcinemas.jp/campaign/bakuon_odaiba_vol14/

以前に記事を書いた映画『悪は存在しない』とは異なり、『GIFT』を鑑賞できる機会は限られている(さらにはどのような鑑賞体験も「一回きり」である)ため、本記事はその映像/音楽の内容ではなく、『GIFT』というタイトルについて、少しばかり思索を深めたい。

「GIFT」

タイトルの意図について、石橋英子と濱口竜介へのインタビュー記事では以下のように語られている。

I:『GIFT』というタイトルは、濱口さんがつけてくださったんですが、「GIFT」という言葉は、贈り物という意味もあるけれど、毒という意味もあるということで。
H:語源にそういう意味があるらしいですし、ドイツ語ではまさに毒という意味ですね。石橋さんがずっと付き合っていくものになるだろうから、相談しながらいくつか候補を挙げた中で選んでもらったわけですが、二重の意味も含めて、結果的にこのタイトルがすごくハマってきているな、ということを日に日に強く感じています。

https://fashionpost.jp/portraits/289822

両義語法

上述のような言葉の用い方は、両義語法と呼ばれる。この両義語法を異常に多用していることを自認しているロラン・バルトは、以下のように述べている。

一般にはコンテクストが、ふたつの意味のうちの一方を選び、もう一方を忘れるよう、強制する。が、これら両義の語に出会うたびに、R・Bは、逆に、それのもつ意味をふたつとも生かしておく。あたかも一方の意味がもう一方の意味に向かって目くばせをしているのだとでもいうように、そして、その語の意味とはまさにその目くばせの中にあるのだというつもりなのだ。その目くばせのおかげで、《同じひとつの語》が、《同じひとつの文》の中で、《同時に》ふたつの異なることがらをあらわすこととなり、人は意味論的にその両方を享受することができる。(中略)一種の《チャンス》によって、また、言語〔ラング〕にそなわっているのではなく言述〔ディスクール〕に現れる幸せな配置のおかげで、私はそれらの両義を《顕在化》することができる(後略)

ロラン・バルト『彼自身によるロラン・バルト』(佐藤信夫訳)p.101

文学的活動をライブパフォーマンスと単純に比較することできないが、目くばせの中の意味、そして配置による顕在化には示唆があるように感じられる。

つまり、贈り物と毒の両義を常に維持するからこそ「GIFT」なのであり、「石橋による即興ライブ演奏が、濱口による映像に干渉を及ぼ」すという配置によってその両義は顕在化されるといえるのではないだろうか。

配置によって顕在化するとは、すなわち固定的な意味をもたないということである。だからこそ、『GIFT』はずっと付き合っていくに耐えうるものになり、常に「一回きり」の映像-音楽体験となるのだろう。

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