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『悪は存在しない』と存在しない「自然」

第80回ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞し、日本では2024年4月26日に公開された、濱口竜介監督による映画『悪は存在しない』。この作品を観終わったあとの思索を深めるひとつの視座として、「自然」概念を取り上げたい。なお、本記事は最後まで公開情報の範囲で記載する(ネタバレ含む内容自体の考察については、数多ある他の記事や動画を参照されたい)。

『悪は存在しない』

2023年の61st New York Film Festival(NYFF)のセッションのなかで濱口監督は、公式パンフレットでも言及されていないような背景や考えを述べている(注意:20分ほどの動画ではラストシーンにも言及されている)。

動画の7:43からチャプターで区切られている質問内容は、『悪は存在しない』と断言しているタイトルの意図についてであった。これについて濱口監督は、以下のように答えている。

「自然」を見ていて、自分のなかに自然と湧き起こってきた言葉というか。一番最初に木が流れて、女の子が登場しますけれども、彼女が見ているような視線、その先には、やっぱり悪は存在しないと思うわけです。「自然」と思うもののなかには、地震とか津波とか、暴力的なことは起きるんだけれども、それは悪とは呼べない何かである、とは思いました。それがある種プロジェクトのタイトルみたいになって、ただ、実際に出来上がった物語はきっと「悪は存在しない」と思う人はあまりいないんじゃないかと思うんですけれども。でも、自分にとっても興味深い、テンションというか、緊張関係みたいなものを内容とタイトルがつくってくれていた気がするので、そのままにしています。

「Ryûsuke Hamaguchi on Evil Does Not Exist | NYFF61」より書き起こし

濱口監督は、“自然”という言葉を用いているが、その言葉が指す内容は一般的に想起する「自然」を越えた趣旨であるように思われる(だからこそ、作品を観た後に戸惑い混じりの心の動きが残るのではないだろうか)。

「自然」

では、そもそも「自然」とは何なのか。京都大学経営管理大学院 教授の山内裕先生は、持続可能性について論じるなかで、以下のように述べている。

エコロジーの論者であるティム・モートンは、ここに持続可能性の問題を設定します。人間が自身を中心に置き、それ以外のものを自然として「あちら側」に置いてきたということです。あちら側に置かれた自然は受動的なものだと捉えられ、科学技術による観察、介入、破壊の対象となってきました。しかし、モートンにとっての問題はそれよりも根深いものです。むしろ、自然をあちら側に置き、人間が近代という怪物の中で疎外、分裂されていくなかで、自然を癒しの源泉として、ある種の母性として崇拝してきたことが問題であるということです。つまりこのような自然概念は人間による近代の発明だというわけです。自然は人間の都合により神聖化されたものであり、本来自然は存在しないということ、つまり「自然なきエコロジー」を提案しているのです。自然を守ろうという主張が人間中心的であることを理解しなければなりません。

第5パラグラフより転載

引用した近代的な「自然」概念を踏まえると、濱口監督は“自然”という言葉(概念)で語ってはいるものの、癒しの源泉としての神聖化された「自然」は存在しない、だからこそ、その暴力的なサマを目の当たりにしても“悪”とは呼べない、と伝えたかったのではないだろうか。

「これは、君の話になる」

パンフレットのなかで濱口監督は、ある場面の作り方について「判断不可能性」という言葉で説明している。上述した「自然」概念を認識したなら、物語を最後まで観終えたときに善悪を判断することなどできないだろう。だからこそ、ポスターやメインビジュアルに添えられているが作中には出てこない、「これは、君の話になる」というフレーズを真摯に受け止めなくてならないように思う。

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