石廊崎 第1章


岡崎潤一郎は六畳一間で暮らしている。窓からは岩地海岸が見下ろせる。住まいは高台にある古いペンションを改装したアパートで築三十五年になる。シャワーは付いているが浴槽はない。そのため風呂は週に一〜三回近くの町営温泉に行っている。仕事の日はシャワーで済ませることが多いが、休日はまだ明るいうちに温泉に行く。高台の坂を降り民家を抜け、山の方へ徒歩五分の道のりを歩く。町営温泉は誰でも一〇〇円で利用できる。無人の温泉で、賽銭箱のようにお金をいれる箱を設置している。潤一郎は一〇〇円を入れるたびに音の反響から利用客が自分以外にほぼいないことを察する。
 湯場には石鹸やシャンプーは置いてないため、シャワーかかけ湯で体を流してからざぶん、と湯に浸かる。広さは大人五人が浸かるのがいいところだろう。湯は源泉かけ流しのナトリウム・カルシウム塩化物泉で筋肉痛、疲労、冷え性などに効果があり、無色透明でとろみのある湯が特徴だ。このあたりには無料開放している露天温泉がいくつかあるが、観光客や海水客がいるため、潤一郎は山間で人の少ないこの町営温泉が気に入った。いつ利用しても無人で貸し切り状態である。簡単な脱衣所があり、木材と石でつくられた簡素な温泉だが、しっかりと雨よけの屋根も設えてある。広大な海を眺めながら森林浴ができる開放感といい、湯加減といい潤一郎には十分だった。客は潤一郎以外にいないといって等しいのだが、これまで三度、一人の老人に会ったことがある。白髪に口ひげを蓄えた無口な老人である。湯に浸かる度に低くうなり、ゔぅ〜と声を漏らす。そして五分もすれば顔を真っ赤にして湯から上がってしまう。だいたい日曜の夕方四時に来ているようだ。きっとの老人は料金箱に一〇〇円をいれることせず、昔から頻繁に利用しているのだろう。もしかしたらこの土地の持ち主かもしれないし、管理人なのかもしれない。
 しかしここ数ヶ月は日曜の夕方四時に来ても、潤一郎は老人に会うことがなくなった。そのことが多少気がかりで、あえて考えないように湯に来る時間を日曜は夕方五時にずらした。
 潤一郎は湯につかると芯から身体が温まり、湯に浸かった日はきまってよく眠れた。

 潤一郎の部屋の洗濯機はバルコニーに備え付けてある。この部屋は狭すぎて洗濯機を設置するスペースがないのだ。あるいはあえて三十年以上前の日本文化を保っているといっても良いだろう。洗濯板と手動ハンドルの脱水機でないだけマシだ。電子レンジだけは、以前使っていたバリュミューダの最新式だ。これに関しては引っ越し当時にはまだ買ったばかりだったし、料理のできない潤一郎は電子レンジだけは必要だろうと思い、愛車のジープの荷台に積んだ。しかし、部屋に置いてみると、どうも不釣り合いで、最新の電子レンジは居心地が悪そうに小さな古い冷蔵庫の上に乗っている。まるでバランスの悪い棚の上に飛びのってすまし顔で丸くなっている猫のようだと潤一郎は思った。冷蔵庫は一番近くの(といっても車で十五分先の松崎にあるリサイクルショップ)で五千円で購入した。前に使っていた大型冷蔵庫はこの部屋には大きすぎるし、潤一郎にとっても容量が大きすぎた。一人での生活には一人暮らし用で十分である。大型冷蔵庫があったところで、ビール缶を取り出すたびに、がらんとした冷蔵庫内の殺風景さに寒気がするだろう。
 部屋には、敷きっぱなしの布団がある。越してきた当初はキャンプ用の寝袋で寝ていたが、背中の痛みに耐えかねて、ついに布団を購入した。ネット通販で東京西川の布団一式を購入した。その柄を潤一郎は気に入らなかったが、シーツをすればよいだろうと思い、シンプルなブルー・グレーのシーツ一式も購入した。通気性のよい麻素材で揃えた。これもネットですべて間に合わせた。部屋の隅には丸い小さなテーブルを置き、その上には写真立てに入れて飾られたふたつの写真がある。ひとつは肩まで伸ばしたセミロングの黒い髪を風になびかせ、ネイビーのブラウスを着て、微笑んでいる女性の写真。年齢は二〇代後半から三〇代前半。そしてもうひとつは、ツインテールにピンクのワンビースを着た二歳くらいの女の子がはにかんだ笑顔でこちらを見ている。
このふたつの写真は、ぴったりと隣合わせに並べられている。もしも写真立てに手が生えていたら、ふたつの写真立てはぎゅっと手をつないでいるだろう。そのくらいふたつの写真立ては、親密に隣り合っている。
 その傍らには線香と、ふたつの小瓶がある。その小瓶は、〈星の砂〉という石垣島の砂が詰められ売店で売られていた。その〈星の砂〉は、娘が生まれたばかりの頃、家族旅行で石垣島に行ったときに潤一郎が買ってあげたものだった。それぞれの小瓶には⭐と☼の形をした天然の砂が入っていた。今ではその形をなした砂は一粒もなく、代わりに白い粉のようなサラッとしたものや(ときどき黄色やうすい桜色も混ざった)大小まだらな白い塊が入っている。ひつつの小瓶には黒い油性マジックで〈Manami〉もうひとつには〈Yui〉と書かれている。
 ふたつの写真と小瓶は、潤一郎の妻の真奈美と娘の結だ。テーブルの前に腰を下ろすと、潤一郎はまっすぐにふたつの写真をみつめ、静かに手を合わせて目を閉じた。
 窓から射した太陽の陽が、ふたりの写真と潤一郎の顔を照らしていた。ふたつの小瓶の中身はより一層白くみえる。

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