石廊崎 第5章

潤一郎は真奈美と結をなくしてからひとり岩地のアパートで寒い冬を越し、年が変わって四月、ついに松崎町にある食品会社に就職をした。岩地にきてからの半年間、自分がどう生きていたのかさえ覚えていない。あまりに惰性的な日常に退廃し、妻と娘に面目ないと思い始めた。
 いつまでもこうしていてもふたりは報われない。せめて、外に出て真面目に働こうと考えた。外にでて肉体を動かすことで、少しでも靄のかかった気分が変わるかもしれない。世の中に期待もせず、決して必要以上に頑張らず、長く苦痛な一日のうちの八時間を労働に変え、この途方もない時間の呪縛から逃れたかった。
 潤一郎は思った。
(誰のために生きているのか。一日二十四時間を生きてそれを死ぬまで永遠に繰り返すこと。僕はその苦痛に耐えて生きなければならない!死という罰ではなく生きる罰が下されたのだ。いや、違う、真奈美と結は僕に生きてほしいと願っているに違いない。生きられなかったぶん、生きてほしいと…。
…いや。もしかしたら、僕がそばにいることを望んでいる。ふたりは寂しがっているのかもしれない。自分を待っていてくれているのかもしれない…)

 潤一郎は答えの出ない問いを常にくりかえすのが癖になり、生きることを主張する一方、死んでふたりのそばに居たいと考えるもう一方の考えに疲れ切っていた。その揺らぐ主張に振り回され、迷い、疲弊していた。日に日に弾力を失っていく体と心。このままでは精神の健全さを失う…潤一郎は、真奈美と結の遺影の前でうずくまってときを過ごした。この時間にも絶え間なく波の音は永遠に繰り返されている。自分が時間の概念をなくしたとしても、海がときの刻みを連れてくる。
 潤一郎はおもたげに首をもたげ、石のように固く背中を丸め、ただ目を閉じて苦痛に顔を歪めている。
 ふと肩をたたかれたような気がした。
(…真奈美か)そう思いようやく顔を上げると、いつの間にか窓の外は夜になり、部屋の中は暗がりになっていた。ふと空腹に襲われた。こんなときでさえ腹が減る自分を愚かだと思った。潤一郎は、なにか食べ物を買うために、近くのコンビニへ向かう。歩いていくには遠すぎる距離だから車を使うしかない。
 
 (ごめんな…おまえたちのぶんもいきるから。がんばるから…)車を運転しながら潤一郎は何度も繰り返した。

 潤一郎は、コンビニで弁当と缶ビールを買った。結に供えるためのヤクルトはまだ冷蔵庫に入っている。帰りがけにふと目に入った求人情報誌のタウンワークを手にとった。家にかえり、おもむろにページをめくり西伊豆のエリアを見る。すると松崎町にある小さな食品会社の求人募集が目に入った。そこでふと、この会社で働いてみようと思い立った。潤一郎は考えることに疲れていた。とりあえず応募すればいいだろうと思ったのだ。彼は生まれ持っての楽観的な部分があり、その気楽さが彼の長所であった。

 彼は頭のどこかでふたりの死を理解し、自分の人生とは違う場所に死があることに気が付きはじめていた。そして無職の数ヶ月を経ても社会性を失っていなかった。心身が傷ついたとしても、彼から常識や礼儀が欠けることはなかった。

(とりあえず、明日電話してみよう)潤一郎はそう思い立ち、ページを広げたままテーブルに置いた。
 その夜潤一郎は夢を見た。海にある小さな浮島に真奈美と結が手をつないで立っている。潤一郎はふたりのもとへいこうと泳ぐが一向にたどりつかない。足掻いてもても足掻いても前へ進まない。岡崎は永力をうしなってふたりを呆然と眺めた。手を伸ばしてもはるか遠く手が届かない。もうだめだ…そのとき巨大な波がふたりのいる浮島を丸ごと飲み込んだ。波が去ったとき、浮島のうえにふたりの姿はなかった。ふたりは忽然と姿を消していた。
 
  潤一郎は胸の苦しさにぱっと目が醒めた。汗でぐっしょりとTシャツが濡れていた。布団から起き上がると、台所の下からウイスキーを取り出して瓶に口をつけて一口飲んだ。胸は激しく動悸し、潤一郎は胸を抑えた。まるで誰かが体のなかから激しくドアをノックしているみたいだと思った。そしてもう一口ウイスキーを口に含むと、しだいに心臓は落ち着きを取り戻し、動悸は収まってきた。窓をあけベランダに出る。夜風が冷たく、心地よかった。潤一郎は眼下に広がる海の底知れない闇と深さに怖れをなした。真奈美、結…ふたりはどこに行ったのだろう?またしても潤一郎は暗闇のなかにふたりの姿をさがした。

 その日の午前、昨日タウンワークで見た食品会社へ求人応募の電話をかけると、すぐに若い女性がでた。電話で誰かと話をするのが久しぶりだった潤一郎は、何を話したら良いのか一瞬戸惑ったが、業務的なやり取りに徹すればいいと自分に言い聞かせた。
「面接希望なのですが…」
と潤一郎が言うと、電話口の女ははきはきとした口調で会話を進めた。
「はい。ではお名前と年齢をお聞かせいただけますか」
「岡崎潤一郎。三十四歳です」
潤一郎はしっかりと名前を発音し、ゆっくり述べた。
「オカザキ ジュンイチロウさんですね。ご応募ありがとうございます。早速ですが、明日はご都合いかがでしょう。履歴書をお持ちになっていらっしゃってください」
と女は言った。
「では明日伺います」
「はい、では明日の十一時に来てください。場所はわかりますか」
「はい。住所はわかります。ありがとうございます。では明日よろしくお願いいたします」
潤一郎はできる限り明るく言葉を発した。
「お気をつけてお越しください。では明日お待ちしております。失礼いたします」
と女は丁寧な口調で電話を切った。柔らかい物言いと、澄んだ声の女だった。
潤一郎は女のスムーズな対応に安堵した。電話を切ると、潤一郎はクローゼットの中からカバーを掛けて仕舞い込んでいたスーツ一式と革靴を取り出し、シワやシミがないことを念入りに確認した。
 
 窓の外を見ると、そこには昨夜の海とは別の姿があった。昼と夜では海はこんなにも姿を変えることに驚いた。
 どこまでも澄んで広大な海原。遠くの沖に一艘の漁船が浮いている。この時期は何の漁をしているのだろうとかと潤一郎は思った。
部屋に桜の花びらが舞い込んできた。いつのまにか春になっていた。
        *

 季節は四月の上旬。伊豆の桜はもうほとんど散り、葉桜になっていた。
潤一郎が住む海の近くのアパートから面接先の飯野フーズまでは車で二〇分。勤務時間は午前九時~午後五時が規定である。アットホームで働きやすい会社です。お決まりの謳い文句。目黒から持ってきた品川ナンバーのジープを運転しながら、潤一郎は仕事場の人間とは距離をおいて付き合おうと決めた。真奈美と結のことも、詮索されるのはまっぴらごめんだ。煩わしい人間関係をできるだけシンプルに、最低限に留めたかった。潤一郎にとっては、ただ真奈美と結に安心してほしいだけだった。働くことでできる人間関係や、福利厚生だの、働きやすい職場だの、すべてのことはどうでもよかった。

 国道沿いに面接を受ける食品会社を見つけた。小規模の会社で、二階建ての古びた建物。潤一郎は町工場のような外装だと思った。駐車場スペースは広く、隣には倉庫らしきものがある。
 建物の入り口にはインターホンがあり、チャイムを押すと、どうぞ。という声がした。 潤一郎は緊張した面持ちで引き戸をガラガラとあけると、広い玄関があり、スリッパが置いてある。奥から二〇代後半くらいの女性社員が出迎えにきた。
「こんにちは。オカザキさん?お待ちしておりました。どうぞお入りください」
と女性社員はにこやかに言った。彼女の胸につけている名札には遠藤那美と書いてある。
潤一郎は改めて
「面接にまいりました。岡崎と申します。よろしくお願い致します」
と丁寧に挨拶をし、三十度の礼をした。
それを受けて遠藤那美は
「ご足労ありがとうございます。本日はよろしくお願い致します」
と丁寧な挨拶をした。
「準備ができましたら、お声掛けいたしますので、そちらにおかけになってお待ち下さい」
遠藤那美は潤一郎にソファに座るよう促した。
あの時の電話口の人だろうかと潤一郎は思った。声が似ているが、正直よくわからなかった。出迎えてくれた遠藤那美の親切な態度に潤一郎は少し安心した。
ソファに座っていると、再び遠藤那美がやってきた。
「岡崎さん、中にお入りください」
遠藤那美はにっこりと笑って事務室のドアをあけた。潤一郎は遠藤那美に軽く会釈をして室内に入る。
面接は応接間ではなく、事務室のかたすみで行われた。
 パーテーションで区切られた事務室の片隅で、社長と思われる五十代くらいの男性と、もうひとり四十代の男性がいた。
 潤一郎は体格の良い中年の大人が、パイプ椅子に座ってまるく円を描いて身を寄せあう姿を想像すると可笑しかった。まるで野良猫が裏路地で集う、井戸端会議のようだと思った。
 雑多な感じのする事務所のなかは、昭和感で見事に統一されている。壁にはられた手書きの社説も、ホワイトボードの外出表も、デスクも椅子も、なにもかもが昔ながらのものだった。まるでひと昔前の夕方のサスペンス・ドラマに使うスタジオセットのようだと思った。

「どうぞお掛けください」
四十代の男が言う。
「失礼いたします」
潤一郎は礼をして椅子に腰を降ろした。
「さて岡崎潤一郎君だね、今日は来てくれてありがとう。よろしく」 
中央に座っている社長と思われる男性が言った。
「よろしくお願いいたします」
潤一郎は面接にふさわしい礼儀正しさをもって挨拶をした。
「まぁそう堅苦しくならないで。ここはそういう会社でないから。気楽にのびのびやってほしいのだよ。じゃあここからは、うちの川田が君にいろいろ質問するから。そもそもうちは社員も十八人しかいないからね。この人が川田、奥にいる人らはまた紹介するよ。うちはこじんまりした会社だで、心配せんでいい。じゃあ川田君、あとはよろしく」
社長と思われる男はそういうと、隣の男性に進行を促した。
その男性は四十代くらいで、貧弱な身体つきだった。手足がとても長く長身だ。185センチはあるかもしれない。窮屈そうにパイプ椅子に背中を丸めて腰掛けている。男の名は川田というようだ。
「営業の川田です。それでは面接を始めさせていただきます。まずお聞きしますが。うちの志望動機はなんですか」
川田は言った。
「はい。御社は食品を通じて、お客様に美味しさや笑顔を届けるのが仕事です。僕はお客様たちの顔は直接見えないですが、御社の商品を届けることで、間接的に喜びを与えられると思います。そんなふうにお客様や料理人の方々を影で支え、お客様ひとりひとりの口に入る食が豊かなものになるように支えたいと思いました」
 潤一郎はゆっくりはっきりとした口調で、なおかつ目の前にいる男たちの顔をしっかり見ながら語った。そうすることが一番有効だと知っていた。クライアントを前にプレゼンをしていたかつての自分のように。
川田の目はまるく見開かれ驚きの表情で岡崎を見た。潤一郎はその反応に手応えを感じた。
「そうですか。ありがとうございます。うちは、そんな大層なことはしていないですよ。でもあなたのいう通りかもしれません。ところでいくつか質問に応えていただきたいのですが…えーと運転免許はもちろんお持ちですよね。今日はお車ですよね。このあたりはバスは不便ですし、営業は運転免許が必須ですから。それから…岡崎さんの生まれは東京ですか。いやーすごいですね。僕の出身は熱海なんですよ。どうして伊豆に越してきたのですか」
川田は矢継ぎ早につぎつぎと話していたが、唐突な質問に潤一郎は一瞬怯んだ。しかし潤一郎は、移住の理由を面接で聞かれるだろうと踏んでいた。
「伊豆の空気が好きで移住したかったのです」

潤一郎は率直に応えた。何事もシンプルに答えれば、深入りされることはない。
「私もこの町が好きです」
川田は嬉しそうに言った。
川田は、履歴書に書いてある〈配偶者なし〉の言葉と、目の前にいる壮年の薬指に光る指輪に疑問を持ったが、触れることはしなかった。川田は面接で、必要以上の詮索をしないように努めていた。潤一郎は、いよいよ家族構成や配偶者について聞かれるだろうと予想していたが、次の質問は予期せぬものだった。
「えーっと。勤務開始日は…いつからご希望ですか」
「私はいつでも…明日から勤務は可能ですか」
潤一郎は思いがけない質問に戸惑いながらも応えた。
「もちろん歓迎しますよ。ね、社長!」
川田が明るい声でそう言うと、社長は笑顔でうなずいている。
「あのね、うちは人手がたりなくて困ってるんだよ。小さな会社だけえが、それなりに忙しくやってるでな」
飯野社長は言った。
すると川田が突然
「岡崎さん、ひとつ質問しても…」
と神妙な面持ちで言った。
潤一郎は、一瞬つばを飲み、拳をぎゅっと握った。手に汗が滲む。
「何でしょうか」
潤一郎は真剣な眼差しで言った。
川田は聞きづらそうに
「以前はどんなお仕事をされていたのですか」
と言った。
「えっ」
潤一郎は思わず小さな驚きの声を出した。
潤一郎は川田のシンプルや質問ゆえに意図がわからず、一瞬答えに詰まっていると、
「いや〜この広告代理店ってこの辺じゃあ聞かないものでして。恥ずかしながら無知なもので」
と川田がはにかんだように笑った。
潤一郎は、川田に対し(この人は僕が仕事を辞めた理由が知りたいのか)と一瞬勘ぐっていた。だが川田の純粋な興味からの質問に、背筋を正し誠意をもって応えた。
「みなさんがよく目にする、広告やCMなどを企画、運営する会社です。なかには自社で制作する会社もありますが、私の努めていた会社はすべて外部に製作依頼をしていました」
潤一郎できるだけ丁寧にまっすぐ答えた。
「じゃあ、あのポスターもそうかね」
社長が突然口を挟んだ。
彼の太い指先は、壁にはられているポスターを指さした。そこには森高千里が缶ビールを持って微笑んでいる。背景は海辺だ。白い砂浜と青空がある。大きな青い文字で〈爽快ビール〉と書かれている。
左下には黒い油性マジックでサインが書かれている。いかにも赤ちょうちんの安居酒屋にありそうなポスターである。一体何年前のポスターだろうと潤一郎は思いながらも、
「すごい年代物ですね。お宝ポスターかもしれません。この商品はアサヒビールなので、おそらく他社の電通でしょう」
「へーそうかね、わっはっは」
社長は豪快に笑った」
「いや〜このポスターをどこの会社が作ったかだなんて経緯を考えたことがなかったです。そうですか。面白いですね」
と川田が言った。そして社長に聞こえないように、小声でポスターを剥がさなくてよかったとも打ち明けた。社員はみんな捨ててもいいじゃないかと言っていたが、なんでも何十年も昔に人からもらったサイン入りのポスターで社長のお気に入りだと潤一郎に耳打ちした。
「これはだな、二〇年以上前に友人からもらってな、非売品だよ。後ろの浜が白い砂だろう。すぐそこの海で撮影したんだよ。千里ちゃんのサインも本物だよ。いや〜愉快だね」
飯野社長は頬が高揚していた。
川田は、社長の扱いに慣れているようで、雑談に華が咲いた空気をぱっと切り替え、少し堅い口調になった。
「わかりました。面接は以上です。岡崎さん、何か質問はありますか」
と言った。
「いえ、とくにありません」
潤一郎は言った。
「社長もよろしいですね」
と川田は念を押した。社長は頬を高揚させたまま、にこにこして頷いている。
「では岡崎さん、明日九時に来てください」
川田は朗らかに言った。
「ということは…採用でしょうか」
潤一郎が川田と社長を交互に見る。
「ええ、もちろん」
川田は潤一郎の目をまっすぐに見て言った。

「ハッハ。うちはそんなに固い会社じゃぁないでね。君は川田くんにいろいろ教わって、それでだんだんに仕事をおぼえてくれりゃあいい。まぁ楽しくやってくれ。じゃあ明日っからよろしく」
社長はそういって笑っていた。よく見るとこの社長は、健康的で人の良さそうな顔をしている。目元には笑いじわが深く刻まれていた。
こうして定職につくという実感のないまま、
岡崎潤一郎の再就職は難なく決まった。
        *
 飯野フーズは飯野智照を筆頭にホテルや割烹、レストランに業務用食品を卸している会社だ。創業はまもなく九十年になる。飯野智照で三代目だ。業務用調味料から、輸入食品、パン、ジャム、ジュース類などの食材、おてふき、紙ナプキン、パック類などの備品にいたるまで幅広く注文を受けている。とくに鰹節やしいたけなどのだし類は、伊豆の老舗の業者と直に取引をし、先代から受け継いできた自慢の商品である。当時は業務用として契約を結ぶまでに、相当な苦労があったそうだ。範囲は西伊豆から下田にあるホテル・旅館・料亭・喫茶店・食事処を担当している。
 潤一郎は川田の部下として営業課に配属になった。営業課といっても注文された商品の配送も兼務している。新規営業というより、これまで通りの注文の配達が主な仕事になりそうだった。潤一郎にとっては事務職であっても、営業で外回りをしようが、配達をしようが、仕事内容はなんでもよかった。生活するための最低限の給料が入り、時間を埋めることができるのなら、どんな仕事でも同じことだった。潤一郎は仕事というものに心を動かすことがなくなっていた。東京で働いていた自分は、仕事が楽しくてたまらなかった。世の中の第一線をいく広告業界。世の中にしかけていき、それがあたったときの喜び。自分の手がけたCMや広告が世の中に無数とあって、それなりの高収入があった。妻と娘と何不自由なく順風満帆な生活のなかで、幸せを感じていた。今の彼は、なにものにも心を委ねられない。人生への信頼もなくした。無感動の日々と、無機質な日常が平然とあるだけだった。

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