高学歴な人が新興宗教や陰謀論に惹かれてしまうのはなぜか
今から30年ほど前のことだ。
日本人の多くが忘れられない、おそらく世界的にも報道されたであろう大事件が起こった。
それは日本のカルト集団が起こした、サリンという化学兵器を使った同時多発テロである。そして、それ以降、そのカルト集団による様々な犯罪行為が明るみになった。
教祖はすでに処刑済みだ。
不思議なことに、当時その犯罪グループの一味であった人たちが、毎日のようにテレビに映し出されていた。
取材映像ではなく、スタジオに来てコメンテイターのように饒舌に話していたのだ。
彼らは皆、高学歴であり、国家資格を持つ人もいた。
「こんなに優秀な人が、なぜこんな宗教に騙されるんや。理系でサリンの製造すらできるような頭脳があるのに、なんであの教祖のウソが見抜けへんねん。」
ずっとずっと不思議に思っていた。
彼らの脳内が1ミリも理解できなかった。
だまされてしまう、信じてしまうメカニズムを、想像すらできなかった。
多くの人がそう思っていたと思う。
もともと知性に対する憧れが強く、どうしたら頭が良くなるのかとずっと考えていて、色々と勉強をして、語学も習得して、本もたくさん読んで、学位もいくつか取り、資格もたくさんとった結果、ちらと分かったことがあった。
勉強すればするほど、多くを知れば知るほど、「自分はなにも分かっていない」「この世で解明されていることは、全体のほんの一部でしかない」という思いが強くなってくるのだ。
何かを安易に否定することも、解明済みだと無批判に受け入れることにも、そのどちらにも言いようのない違和感を感じるようになってくるのだ。
世間では頭ごなしに否定されることでも、目の前の人が熱弁をふるっているのを見ると、「もしかすると、そういうこともあるのかもしれない」と思うのだ。
と同時に、何かの疑問に対する自分なりの解を得た(と自分が感じた)時には、脳が快感で満たされてしまう。点と点が火花を散らしながらドッキングするような感覚に陥り、なんとも言えないすっきり感を味わうのだ。
脳内ホルモンが出ている、と思う。
学ぶことを辞められない人は、この快感を知ってしまった人であろう。
ずっとずっと考え続けていて、いつか分かることがくるのかなとぼんやり脳内のどこかにとどめていて、生活していく中で、その周辺に色々な知識や経験をつなげていく。
それでも分からない。
分からないまま何年もおいておく。
それがある日突然、その疑問の答えにふわっと近づきそうになり、自分が「その解であろう」と納得できるものが見つかり、かつ自分の中で言語化できた瞬間の快感は、筆舌に尽くしがたいものがある。
陰謀論を受け入れる瞬間というのは、おそらくその快感を味わってしまっているのだ。
日頃から、世の中ってどうしてこうなんだろう、なぜこんなことが起こるのだろう、と考えている人にとって、「ある一つのストーリーで、多くの自分の中の疑問がクリアになり、納得できる答えが見つかること」にまさる快感はないのだ。
そして、高学歴理系の人は、「世の中の多くのことはまだ解明されていないし、何らかの説を頭ごなしに否定することは、科学に対する冒とくである」とすら思っているから、あらゆる可能性を論拠なく否定はしないのだ。
そして通常は、「批判的思考」も持ち続けているものであり、その場合においては何の問題もないはずである。
つまり、何かのストーリー(陰謀論も研究に基づく新たな発見も)に没入する過程において、どこかで「批判的思考」を失ってしまい、安易な方向(無批判に受け入れる、妄信する)に流れると「陰謀論にハマってしまった人」になるのだろう。
この辺りのところまでは、数年前に気づいたことなのだが、その後、「かつては陰謀論とみなされた説が、あながちウソとも言えない状況」が起こりつつあるために、話はややこしくなってきている。
真実は小説よりも奇なり、という状況も多々ある。
以前ならその小さなエリアでしか語られなかったことが、グローバルに配信できるようになって、多くの人が多くの事象に触れられるようになった。
かつても実は存在したであろう「奇妙な事実」や「猟奇的な事件」が、全世界で同時に知られるようになったために、「奇異なことが、日常的に起こり得る時代」になったように感じられるようにもなった。
そうなるとかつてはそのエリアにポツンと一人しかいなかった「(一般人とは異なる)妙な考えを持つ人」の割合は増えるしかない。
妙な考えにアクセスできる機会が増えているからだ。
そうなると、「論拠もありコンセンサスを得た事実」だけの世界で生きる人と、「ひょっとするとそういうこともあり得るかもね」と考える人との間で、分断が生まれてしまうのだよー!!!
個人的意見で言えば、天動説・地動説を持ち出すまでもなく、かつての「解明された科学的発見」がくつがえされることもあるのだから、「何らかの仮説」に対しては常にオープンマインドでありたいとも思う。
そういうことも、あり得るかも。
とフワッと考えて、とりあえずは結論を出さずに、脳内のどこかに留めておけばいいのだ。
でもそれを公で熱弁すると、陰謀論者扱いをされてしまうかも。
なぜ「一般的には信じられていない説を取り入れること」が、陰謀論にハマったと批判されてしまうのか。
当然ながら、「解明されていない何らかの仮説を、根拠を伴う科学的事実かのように妄信して流布すること」には、多くの弊害がある。
だが、自分の脳内に留めておけば、特に問題はない。
自分の考えとして、それを口に出すだけなら、大きな問題ではない。
問題となるのは、
それを事実かのように流布すること
その説を、他者に強要すること
批判的精神を失うこと(妄信すること)
であろう。
ちなみにであるが、私には「生まれたときから約束された超理系の兄」がいるのだが、その兄が心霊写真などのオカルト系が好きで、母が都市伝説好きである。
それでも彼らが陰謀論にハマった状態になっていないのは、批判的思考があることと、エンタメとして楽しんでいることだ。
私はというと、「そういうこともあり得る!」とすぐに膝を叩いてしまいがちなので、子供たちには「陰謀論にハマるBBA待ったなし!」と恐れられている(汗)。
IT業界で知らない人はいない佐藤航陽さんが都市伝説業界では有名な「ナオキマンショー」に出演された時は、マジでびっくりしすぎで絶叫したよねw
信じなくてもいいけど、エンタメとして楽しめばええやん!