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メンタリストの発言について(資本主義と優生思想)

この記事はインスタグラムの投稿、メンタリストの発言についてでは書けなかった私自身の考えを書いています。インスタグラムの投稿を読まなくともこのnoteの内容は理解できますが、そもそもどうして彼の発言はいけないのかを、彼の影響力などを考慮して作りました。ぜひそちらもご覧ください。

背景にあるものを考える

私は今回の差別発言及び彼自身の考え方は、資本主義にどっぷりつかっているために出てくるものなのだろうと感じています。
というのも、彼は関連する動画の中で、「自分はこれに文句を言ってくる人より稼いで納税をしているから文句を言うな」という発言をしているからです。一人一票を保障している民主主義ではなく、稼いで金を払っている人がより価値がある、株主総会的な価値観だな、と私は感じました。

新自由主義と優生思想

社会にとって不必要な人は排除しても良いという考え方は、障害のある人を不要と決めつける優生思想と同じです。

資本主義どっぷりのDaiGo氏から優生思想の排除の考え方が出てきたのは、私はあまり不思議ではないと感じています。
資本主義、とりわけ新自由主義は、あらゆるものの市場化によってすべてが競争化されて、競争しなければ生きてはいけません。幼い頃から学歴競争、能力競争、就職競争、資産競争と言う感じで、生きているだけで競争に追い立てられる感じは私自身感じています。
その競争システムゆえに勝敗が一目でわかるようになる。その敗者を排除するのに有効なのが優生思想ではないかと私は思います。
競争に負けて劣っている、故に排除してよいという感じです。
その様な空気感は日本社会の中で誰もが感じてしまう空気なのではないかと私は思います。

DaiGo氏の場合は、自分は勝ち抜いてきた、だから他の人も同様に努力をしろ、そうでない人は排除してよいみたいな感じがします。
(動画の中で彼は自身のいじめられた経験で誰も助けてくれなかったと語っているので、そういうところも彼に影響を与えているのでしょう。)

優生思想と資本主義のコンボは、今回のDaiGo氏だけでなく相模原の障害者殺傷事件にも言えることではないかなと私は考えています。

競争を迫ってくる空気感の中で、植松の場合は、自分は役に立たない人間であるが、最下層(だと思う)障害者を蹴落とすことによって存在証明しようとしたのではないでしょうか?
彼がどうであったか私は知りませんが、あくまで同じ時代を生きる一人として、もしかしたらと言う予想の一つです。

こうやって偉そうに書いているが…

私自身DaiGo氏の動画を一時期結構見ていました。インターネットでも指摘されていますが、彼はセクシズム的な発言をこれまで繰り返していて、これまで見た動画とか振り返っても確かにそうだったなと思います。
それでも彼の動画を見てしまうのは、恐らく私自身も無能になりたくないのだと思います。資本主義の競争の中で敗者になるのがとても怖い。

noteでは何度か書いていますが、私は適応障害になって今でもよく気圧とか気圧で体調を崩します。そんなときに本来はゆっくり休めば良いのですが、頭の片隅にさぼっているんじゃないかという疑念がわきます。

「これまで健康維持をさぼってきて、今も体調不良のフリをしてるが、実はただ動きたくないだけでサボっているんじゃないか。」(心の声)

症状もあるのでしょうが、そういう時に効率と成果を前面に押し出した彼の動画にすがり付き、私は無能ではないと証明したくなってしまうのは、それを許さない社会の風潮もあるのではないでしょうか。

人権が絵空事でない社会にするために

彼、DaiGo氏を生んだ社会背景と彼が行ったことは別です。
それは児童虐待の加害者の背景を考えるのと、でもストレスフルな状況だったからと言って子供を虐待してはいけないのと同様です。
とりあえずこれ以上被害者を生まないことが先決でしょう。(実際支援者の元には不安を感じる生活困窮者から連絡があったそうです)
そういう意味で彼の発言動画(切り抜きを含む動画)を非公開なり削除したり、そういうヘイトで収益を上げないようにすることは重要だと思います。

その一方で、無能であることを許さない社会の側も問うていく必要があると私は思います。
学校と職場以外の居場所を許さない社会。
日本型企業の年功序列と上昇賃金以外に平等が存在しない社会。
働いていないと社会の構成員として認めないような社会。

誰もがどんな状況でも生きている価値があると胸を張って言える社会を作るには、自分もそうやって守られると実感できる社会にしていく必要があるのではないでしょうか。

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